
財団 康楽寺
西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
堤操氏からの手紙
お手紙を戴きまして、此方の古い書類などを調べましたが、先生のお屋敷は宅のすぐちかくで御座いましたので、大方の事は、こちらからお屋敷に伺ったり、或いは当方の陋屋におこしになったりしてお話を済ましておりまし為に文書など見当たりませんでした。また息子もその頃は学生で御座いましたのでご高名は存じておりましたが、殆ど記憶しております事も無く、私にご返事を差し上げて呉れと申されました。その頃は私もお屋敷え堤とともにお伺いいたしました事もございましたが、堤の方は選挙の演説などにも先生の距離の金沢の白雲楼に・・・伺っておりました。あの白雲楼には立派な仏間があり、先生は大変に仏教のご信仰の厚い方であると申して居りました。・・・せっかくのお問い合わせに、何のお役にも立ちませんでした事をおわびいたします。右息子に代りましてご返事まで申し上げます。五月十九日
以上が昭和53年に堤清二氏宛てに書いて手紙の返事である。この手紙のなかに白雲楼の仏間とあるのは、白雲楼の上の山にある康楽寺のことである。この康楽寺は父の資産を全て寄付したもので、西武鉄道や東急の株式を多数所有していて、東急の五島慶太が西武との争いの中に、康楽寺を買い取りに来た事があったのである。このことにかんしては、近藤荒樹(2)私に成りすまして父の本邸の売買に立ち会った弁谷昌造の項で記載してた。 http://blog.goo.ne.jp/stendhal_ht/d/20050630
西武と東急の争いの仲介になるため、父が両者の株式を大量に所有していたのである。今この康楽寺がどの様になっているかは、此れまでなんども書いてきた通りである。父の屋敷は今ドイツ大使館になっているところで、堤邸からは比較的近いところにあった。戦後は中国大使館になって、父は鎌倉の別邸にアメリカのMPの監視されていたが、昭和21年10月には開放されていたが、父の住まいはこの本邸に帰ることは無かった。従って堤操氏のいわれるお互いに行き来したとは、戦前から終戦直後の昭和20年の暮れまでのことである。父はこの本邸を康楽寺に寄付をしており、自分は中央区京橋の日本タイプライターのビルの五階を住居としていた。父生存の頃には、日本タイプのビルに、父を尋ねる当時の著名人が行列となるほど面会に来ていたようであるが、私が日本タイプに入った頃は社員に緘口令が引かれていた。