白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

上戸の長者竹端仁作(11)益谷秀次及び堤康次郎

2007年05月11日 14時31分57秒 | 堤康次郎
昭和初年から実施された普選からは、選挙は厳しさを増し
政友会と民政党との戦いは今では考えられない様相を呈した。
選挙権は一般成年男子に平等に与えられたが、その票を巡る争奪戦は眼に余るものがあった。ここに相手陣営の中傷が流布されるようになった。
父が亡くなったときの怪文書はその一端を表している。
父の地盤は政友会一色であり、父の友人の布施丑造氏も政友会に属していた。
 父は大隈公との関係から民政党として出馬することなり、益谷秀次との政治的ライバル関係が続くことになった。
 東条英機内閣時代は政党は解体して一本化したが、
父は民政党最期の幹事長として、政友連合に反対していたが、時の本流には抗しきれず、民政党を解体する羽目になった。政友会の領袖前田米蔵一派と対立し、反東条派として対立していた。
この両派な対立の仲立ちをしたのが、国策研究会の主宰者である。
 一方益谷秀次は政界ろ黒幕辻嘉六の秘書をしており、戦後は自由党を創立資金を提供したことになっている。
父は日本進歩党を前田米蔵氏と立ち上げたが、追放となり政治には直接関与出来なくなった。
戦前の政友会系と民政党系が後に合同して、自由民主党となったが、益谷秀次は吉田、岸、池田、佐藤内閣の要職を占め戦後の政界の黒幕的存在であった。一方吉田茂に取り入った堤康次郎は戦後政界における存在は、益谷秀次に比して影が薄い。金が掛かる政界に余り深入りする必要が無くなたのである。
一方益谷には金弦があった。
日本観光を倒産させた桜井清次は益谷と同じ宇出津の出で、かって清次は私に向かって、一度政治に足を突っ込んだらお終いだと漏らしたことがあった。
つまり金をセビラレテ居たからであろう。


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