『デッドマン・ウォーキング』(映画)
もし死刑に賛成か反対かのアンケート調査に答えるとしたら、わたしは反対の方にしるしをつけるだろう。しかし、これはかなり心情的なものである。
わたしは死刑や死刑制度についてほとんど勉強してないし、自分の気持ちを論理化することはできない。犯人に極刑をと訴える被害者の家族の前で、自分が死刑反対だと言い切る勇気はない。
しかし、死刑にされることをなんとも思わないとうそぶきながら処刑される人を見ると、命を奪うことの残酷さと罪深さを自覚して刑について欲しいと感じる。
『デッドマン・ウォーキング』は、そんなわたしの気持ちを見透かしたような映画である。
1995年に公開されたハリウッド映画。原題も“Dead Man Walking”で、これは死刑囚が刑場へ歩いて行くときに刑吏がいう言葉で、映画の中にも登場する。
ニューヨークの黒人街でボランティア活動をしているシスター・ヘレンのところに、マシュー・ボンスレットという白人死刑囚から会って欲しいという手紙が来る。彼は10代の一組の男女を殺し、女性を強姦したという罪に問われている。
会って話を聞くと、マシューは一緒にいた男が殺して強姦したので、そちらは言い逃れて無期懲役になっているが、自分は無罪であり、助けて欲しいという。
ヘレンは死刑反対論者であり、マシューとは別な理由から死刑減免に助力することを承諾する。
実は孤独でおびえているが強がりをいうマシューを説得し、赦免審問会での母親の証言を承諾させる。しかし赦免申請は却下となり、死刑執行の期日が1週間後に決められる。
その席に来ていた被害者家族から、ヘレンはどうして犯人をかばうのかと難詰される。ヘレンは両方の被害者家族を訪ね、犯罪者も神の前には個人としての尊厳があることを述べるが理解されず、マシューに対する憎しみの深さを知る。
マシューはヘレンに精神的指導者になって欲しいと要請する。精神的指導者とは、刑が執行されるまで死刑囚に付き添うという非常にきつい役目であり、周囲からは心配されるがヘレンはそれを引き受ける。
マシューは自分の無罪主張が嘘でないことを噓発見器で実証しようとするがその結論は得られない。個人的には死刑反対論者の州知事への赦免要請も拒否され、上訴審への申請だけが残された道となる。
迫りくる死におびえるマシューに、ヘレンは聖書を渡す。罪びとも神に許されるというマシューに、自分の罪を認め、その罪の許しを神に請うのであって、それは間違っているとヘレンはいう。また、たとえ殺していなくても、犯罪を傍観していただけという責任はマシューに存在することを指摘し、真実は自由をもたらすと諭す。
死刑執行当日、上訴却下の知らせがもたらされる。マシューはヘレンに聖書を返し、自分が男性を殺し、女性を強姦したことを告白する。そしてその前夜、自分の罪の許しを神に祈ったという。
致死薬を注射される前の最後の発言で、マシューは立ち会っている被害者家族に謝罪し、自分の刑死が平安をもたらすようにという。そして。殺人は国家によるものであっても罪であると述べる。
マシューははヘレンの方を向いて「愛をありがとう。愛している。」と呼びかけ、ヘレンも声には出さずに愛していると答え、マシューの方に手を差し伸べる。
この最後の死刑執行に至る過程の演出は実に濃密で迫力がある。
シスター・ヘレンは宗派の規則で修道服はまとわず、私服で通している。いわゆる「聖女」としてでなく、普通の女性として演じられ、人間的な悩みが伝わってくる。
主演女優のスーザン・サランドンは、この演技でアカデミー賞主演女優賞に輝いている。
原作は、シスター・ヘレン・ブライジョーンによるノンフィクションで、死刑反対論の立場から書かれているらしいが、映画では死刑を肯定する立場からの主張も盛られている。
いい映画だった。
秋の気配
マンションの公園で撮影
STOP WAR!
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