すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

再読もIKIGAIとなる

2022年01月17日 | 読書
 「生きがい」という語には、少々古臭さを感じる。少なくとも若い世代が頻繁に使用する語彙ではない。ただ「生きていくための支えとなる目標や心の張り合い」という意味は多くが理解しているだろう。その当たり前の言葉が、日本人の大きな特質でありそこから逃れられない面があると、今回の読み直しで感じた。



『IKIGAI  日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』
 (茂木健一郎  恩蔵絢子・訳  新潮社)



 茂木が初めて英語で著した本。当然外国人向けアピールがあり「日本人賞賛」といった見方で括る者もいるだろうが、それだけではない。長く司会していたNHKの「プロフェッショナル」という番組に登場した人物が描かれている箇所は、社会における注目度以上にその徹底した生き様が学べるし、改めて共感する。


 しかしこの著で茂木が強調したいのは、そこではない。第一章にある「<生きがい>は、あなたが専門領域で必ずしも成功をおさめていなくても、使うことのできる言葉なのだ」「生き方の多様性を賛美している、とても民主的概念なのである」という文章が示すように、「成功」や「賞賛」とは観点が異なることだ。


 最終章に注目した一節がある。日本人の同質性傾向を前置きにしてこう記す。「日本社会には、個性の表現に関し、深い面白みがある。他者と調和した関係性を保ちながらも、個性を生かし続けるための小技をたくさん持っている」…身近な人が数多く思い浮かぶ。例に挙げられた江戸期の商人、現在のコミケは典型だ。


 国内は格差拡大がひろがっている印象が強い。地球規模の環境問題や感染症問題は、先行きの不安を増大させている。それらと無関係に生活を営むことはできないが、それでも「生きがい」は、個人の中で火を絶やさず心身を温めてくれる。好きなことを探し掘り続ける自分を、横目で眺める感覚とともに歩めれば…。


 2018年にこの著を読んだ時に、結構まとまった形でメモを残していた。

 IKGAI 壱

 IKGAI 弐

 IKGAI 参

 IKGAI 了












トラを迎える心の準備

2022年01月16日 | 絵本
 去年のうし年は内田麟太郎の『うし』、一昨年はねずみ年だったので『リンドバーグ 小さなねずみの大冒険』を、干支にちなんで読み聞かせる機会があった。今年のとらは、あまりないだろうと真面目に探しもしなかったが、偶然、孫用に借りていた絵本を見つけ、読んでみたらなかなかいいムードのある一冊だった。


『おちゃのじかんに きた とら』
 (ジュディス・カー作 晴海耕平・訳 童話館) 



 ソフィーというちいさな女の子とお母さんが、台所でお茶の時間を楽しもうとした時に玄関のベルがなり、ドアをあけてみるとそこにいたのは、毛むくじゃらでしまもようのとら。お腹が空いているので一緒にお茶させてくれと言う。お母さんは快く招き入れ、サンドイッチをすすめると、とらは一口で呑み込んで…


 その後、家中のありとあらゆる食べ物、飲み物をたいらげて帰ってしまう。ちょうどそこへ帰ってきたお父さんはその話を聞き…という展開である。もちろん、とらは恐怖の対象にはなっておらず、次から次へと食べるに従って、ソフィーと親密さを深めていくような絵が描かれている。ファミリーファンタジーかな。


 外国に干支は関係ないが、とら(tiger)は何かを象徴しているのだろうか。この異色の訪問者は、家族の歓待?をうけて、結果的には家族に幸せをもたらす存在になった。家族が再訪を望む行動を見せるが、結局二度とは現れないというエンディングだ。こんな終わり方をする外国童話など、結構多い気がしている。


 拡大解釈してみれば、様々な環境にある者を素直に受け入れ、温かく見守りなさい。その行為は福音をもたらすでしょう…といった宗教的なイメージにつながる。また、アクシデントを乗り越えるハッピーさという見方もできる。「とらが、いつまたおちゃのじかんにきてもいいように」…せめて、心の準備はしたい。

回収段階と思い知る

2022年01月13日 | 読書
 (前日からの続き)
 石川が、結論を一行で示したと考えられる文はこれである。
「人生を因果ではなく、因縁としてとらえること」



『どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた』
 (石川善樹・吉田尚記  KADOKAWA)

 幸せを考えるうえで「楽しい状態」は欠かせない。以前、石川が示した「幸せ」が心理学的に「快楽」「意味」「没頭」という三つのパターンを持っていることと深くかかわっていると考えられる。そのどれかに当てはまっているとして、本当に自分の欲望に忠実か、他者の評価に委ねていないかがポイントに違いない。


 「日本人は『空気を読む訓練』を受けている」…その指摘はかなり重要だ。自分も加担していないか。おもちゃの車を投げる子どもに対して「クルマさんが痛いでしょう」とよく言ったりする。それはモノを大切にする価値の伝達なのだが、他者の視点を知らせるとともに外部の評価軸を意識させる声かけとも言える。


 さて、今併行して読んでいる茂木健一郎の英語本の訳書『IKIGAI』に、こんな一節がある。「幸せの絶対的公式などないのである。」…誰しも納得しそうなこの命題に、果敢に挑戦しているのが石川×吉田の対談だろう。最終章で吉田は「『幸せに生きる方法』を一般化できる気がしてきました」と次のように示した。


「①まず「好き」をベースとして得意なことを1つ見つける。②ある程度まで「得意」で進んだら、不得意なことをやってみる」…その続きは羅列されていないが、文中から探ると「コンセプトを持つ」「チェックリストをつくる」等で具体化されていくと予想した。つまり「好きを知る」量を増やすことではないか。


 「コネクティング・ザ・ドット」つまり「点をつなげる」…「自分の人生を振り返って、そこに存在している興味関心をつなげてみる」考えが示されていた。そこには「50歳ぐらい」と記され、かなり手遅れと自覚する。ドットはもう増える可能性は低いし、この齢ならその「回収」という方向が現実的と思い知る。

幸せ感を得る幸せ観

2022年01月12日 | 読書
 「読み直し」は予習として実にいいものだ。性格が対照的なラジオアナウンサーとの対談で、石川善樹の語る様々な知見がすうっと入ってきた。おそらく読者対象としては20代30代を想定しているのだろう。しかし、違和感なく読めたのは、改めて自分にとってこの分野への関心が長い間高かったからだと納得した。



『どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた』
  (石川善樹・吉田尚記  KADOKAWA)


 抜群に面白かったのが第4章「科学的に見ると、恋愛と結婚って何ですか?」。石川の結婚に至るまでの過程が語られ、その徹底ぶりはドラマを見るようだった。研究者として初のテーマが「ダイエット」だったのは女性との話題づくり。しかし「ダイエットについて考え始めたら、恋とかどうでもよくなった」と進む。


 「結婚とは、『この人がいい』 じゃなく『この人でいいや』」という結婚観に頷いた。遠い昔に高校の同級生たちと話題にしたことがある。大人数のなか、同様の考えを示したのが自分とある女子一人だったことを思い出す。その考え方と「幸せ」の結びつきは案外典型的かもしれない。自分を俯瞰する見方でもある。


 「僕、悲しいって感情がないんですよ」と石川が語る。極限の状況(例えば家族の死等)までは触れていないが、なぜ悲しい感情がないかを「そもそもいろんなことを『ある』と思っていないから。明日もあると思っていない」と説明する。「期待するから怒りや悲しみが生まれる」とは、まさに一つの境地ではある。


 「多様性」は繰り返されるキーワードだが、本当の価値はどこにあるか。盛んに喧伝されるのは、個々の認め合いという精神論のような気がする。対談で具体的に示された「希少な資源をみんなで争う競争からの逸脱」の意味を、社会情勢や自ら置かれた環境下で考える時「資源のバリェーション」という語が光る。
つづく

再会とは「何」に会うことか

2022年01月11日 | 読書
 久しぶりの重松本。正月休みにふさわしいか…と手に取った。短編4中編1という構成だ。出版社の書いた帯文が実に端的に、この本の重松ワールドを紹介してくれる。「子育て、離婚、定年、介護、家族、友達。人生には、どしゃぶりもあれば晴れ間もある。」つまり、どしゃぶりや晴れ間の意味を問いかける一冊。


『旧友再会』(重松清  講談社)


 中年以降の読者であれば、ほとんどの人が自分を重ねられる部分が登場するといってよい。それらを現在の世相とうまく切り結んで描かれ、ほんの少し俯瞰的に見ることができるのではないか。読みながら「あるある」とか、ずばり「言い当てられた」感情が湧いてくるような場面に遭遇する。そこが作家の巧みさだ。


 再び帯文にもどれば、これも素晴らしい。「年を重ねると増えていく『再会』の機会。再会は、一度別れたからこそのもの。どう別れたかで、再会の仕方も変わってくる。会いたい人、会いたくない人、忘れていた人。」これは表題作を対象としている文章に見えるが、読めば他の作品すべてに通じているとわかる。




 考えてみれば再会とは、人と再び会う事を指すが、実はその人に関わる出来事を振り返ることであり、その時の自分、経過した時間、心に残っている重さや軽さ等々、多様に展開されるはずである。いったい何が一番に浮かんでくるのか。時間をかけてそこを辿れば、過去の思いや考え、言動の根拠も見えてくる。


 それは紛れもなく自分との再会だ。同期会で思い出話をすれば「あの時は…」で相手とのギャップを感じるのはよくある例だ。ともあれ目まぐるしく経済だけが行き過ぎ、時間は経過していく。本全体の最終一行「昔、ここには急行列車が走っていたのだ。」は、「廃線路」をどう歩むか、現代人への問いかけであろう。

三日月見る幸せ

2022年01月08日 | 雑記帳
 1月6日木曜日。

 夕方、東京が数年ぶりの積雪ということでTVニュースが喧しい。

 ミニカー遊びに飽きた2歳半の孫は、寝室の方へ行って一人で本を開いている。
 妙に頷きながら、時々「オシマイ」などと声をだしている。
 もちろん何事か訳のわからないまま、周りの大人の真似をしているだけだ。

 私のベッドサイドに積まれているのは漫画本。
 年齢にふさわしく、古いグルメコミックを読み直しているのが常だ。

 本を読み終えた(笑)孫は、今度はカーテンを開けて窓の外を覗き込もうとする。
 「寒いよ」と言いながら近づき、カーテンを開けて窓から暗くなりかけた空を見上げた。

 「あっ」
 雪が止み晴れている薄闇の空に、三日月。

 「ああ、いいねえ。お月さま。ミカヅキ、ミカヅキと言うんだよ」と口にしてみるが、まだまだ正確な発音もできず「ウカウキ」みたいな声で応える。

 ところが、そのうち何を思ったか、再び私の本のところへ行き広げ始めた。
 そして、こちらに持ってくるではないか。
 なんと、その1ページに三日月の絵がくっきりと載っている。

 「オンナジ、オンナジ」と、また空を見上げる。

 ああそうだね。同じだねえ。そうだねえ。

 こんな瞬間に立ち会える幸せをつくづく思う。

 もっともそれが絵本であったら、よりほのぼの感が出て情愛あふれる光景なのだけれど…。
 『深夜食堂』11巻だったのが、ちょっと情けないオチだった。


何度も読んでみていい

2022年01月07日 | 読書
 読み直しシリーズ第1弾は注目している予防医学研究者。対談本を借りてきたので、その前に読了した2冊をもう一度書棚から抜き出してめくってみる。ざっと読み通していくつか実行していることもあった。また、改めて「そうか」と思った事柄も少なくなかった。著者の明快な語りやデータの示し方は魅力的だ。


 今冬初の車庫屋根雪下ろし。ひと時の晴れ間が嬉しい。


『疲れない脳をつくる生活習慣』(石川善樹  プレジデント社)

 冒頭の「人間が1日に使える意思決定の量は限られている」という知見は、重要だ。アーティストやアスリートに散見されるが、同じ服しか着ない、いつも同じ朝食などという習慣に通じているのではないか。自分の意思決定を大事なことに集中させるためには、行動の優先順位に従ったルーティーン構築が必要だ。

 本書の核はいわゆるマインドフルネスであり、それを日常化させるための提言が豊富に並んでいる。それらを貫く結論はこの点だと思う。「『考え方』を変えるよりも『注意』を変える」。脳は「変化嫌い」だという。自己改善には生活の細かい点への「注意の向け方」が役立つ。何度も口にしてきた丁寧な生活習慣だ。


『友だちの数で寿命はきまる』(石川善樹  マガジンハウス)

 「つくり笑いでも2年は寿命が伸びる」ことは覚えていた。しかし、問題なのはつくり笑いをする人生で2年長く生きる可能性の価値をどうとらえるか、ということかもしれない。この書にあるWHOの「健康」に関する定義「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態」を、どう自分で消化・昇華するかだろう。

 「おかしいから笑うのではなく、笑うからおかしいのだ」という考えがある。行動優先にすることで精神面への好影響は十分考えられ、その結果、この本のテーマである「つながり」が生まれ、増し、「幸せ」につながるとも言える。ただ、「幸せを感じる3つのパターン」の自己分析が必須だ。快楽か意味か没頭か。

最も幸福で最低の生を生きる

2022年01月05日 | 雑記帳
 図書館のエントランス掲示は、「読めばいいのだ」と名づけ、少しごり押し感(笑)のある内容にしている。なかでも「詩文を読む」は、個人的に気になる作家等の詩や文章の一節を取り上げ、蔵書紹介へ結びつけている。今月は満を持して、穗村弘。実は歌集はほとんどないが、評論・エッセイが少し並べられている。


 穗村の『短歌の友人』もそのなかの一冊で、そのなかに「三つの時間」という章があり、「近代」「戦後」「今」について語っている文章がある。これは私たちが生きている時間とは、「近代(以降)」「戦後」「今」が同時進行しているという認識である。そのなかの「今」に関する記述のなかから、結論部を引用した。


我々の<今>には、
「もっと大きな意味で特別」なことがある。
それは、人類の終焉の世紀を生きるという意味である。
人類史上もっとも幸福で、
しかし心のレベルとしては最低の生を生き
種の最期に立ち会おうとしている
我々の今が<特異点>にならないはずがない。
我々は新しい歌を作らなくてはならない。
新しいオモチャのような歌を。





 穗村の書く文章はエッセイ等の軽快モードとは正反対に、評論ではぐんと重く圧し掛かってくる印象をうけることがある。「人類史上最も幸福で、しかし心のレベルとしては最低の生を生き…」という二律背反的であるが、ある意味痛快な表現に心がざわつく。「終焉」や「最期」はけして脅しではなく、認識である。


 「オモチャ」とは、ひと時もてあそぶ、喜びをもたらす対象と言ってよい。しかし穗村が「すべての変革とは、その瞬間を切り取れば常にオモチャ化とイコール」と記すように、例えば幼子が何かに夢中になっている刹那にこそ生の本質があり、表面上はどうあれ「創造」的な要素に結びつく。さて、大人はどうする。

ステキな詩を求める心

2022年01月04日 | 読書
 著者の名前には馴染みがある。詩のアンソロジーの編者として多く目にしてきた。現場教員から編集者になったという経歴を初めて知った。そういう道も微かに視野にあった時代もあるので親近感が持てた。副題は「54人の詩人をたずねて」。著名な詩人を中心に、交流のあった方々を幅広くかつ深くとらえている。


『ステキな詩に会いたくて』(水内喜久雄  小学館)

 冒頭に多くのページが割かれている、谷川俊太郎、まど・みちおといういわば巨人と著者が接した文章は貴重に思えた。特に現役教員の頃、まどさんにお願いし初めて訪問した日に、まどさんが「お家の前で直立不動みたいに立ち、待っておられた」というエピソードは、添えられた写真のその姿とともに心を打つ。


 上記お二人の他に個人的に印象深いのは、自分が国語実践に励んでいた頃によく取り上げた工藤直子、原田直友、川崎洋だ。特に原田直友の「はじめて小鳥が飛んだとき」は、詩をどう教えるかの核心に近づいた記憶と共にある。工藤直子の一連の詩は「読解→討論→表現」というオリジナル実践のきっかけとなった。



 「朗読」という形でパフォーマンスする詩人が少なくないことに驚いた。2010年発刊なのでその頃に「詩のボクシング」が注目されていたこともあったか。ただ改めて確認できるのは、多くの場合詩は口から発してこそ届くということではないか。文字から音声へ、どのように表現するか、また考えさせられる。


 「ステキな詩」(なぜカタカナなのか不明だが)とは、ごく一般的な表現だ。しかし、この本に登場する詩人たちの主に児童向けの詩は、どの世代にも訴えかける願いが読み取れる。現代詩を分からぬ者の言い訳に過ぎないと言われそうだが、やはりステキな詩とは心にストレートに響く「意味が見える」言葉がいい。

 谷川俊太郎「今年」の一部を紹介して、締めよう。

涙があるだろう
今年も
涙ながらの歌があるだろう
固めたこぶしがあるだろう
大笑いがあるだろう今年も
あくびをするだろう
今年も


新しいシフォン主義とは何か

2022年01月03日 | 雑記帳
 今年の賀状に洒落っぽく「新しいシフォン主義」という語を入れてみた。もちろん、某首相が提示した「新しい資本主義」のもじりである。そこに「かるくやわらかに」と添えたのは、シフォンケーキを連想して甘さや濃さを抑えるイメージを重ねてみた。と、ここまでは普通だ。しかし、語を選ぶにはそれなりの…。


    放春花~木瓜の花誰よりも早く香りを放て

 そもそも「シフォン」とは何か。Chiffonはフランス語で「ごく薄い平織の絹織物」を意味する。広辞苑では「⇒絹モスリンと同じ」と記されている。それは「経緯(たてよこ)ともに1本の生糸に強撚を施した糸を用い~~」とあり、薄く平織りをするための素地について説明されていた。「強撚」という語が印象的だ。


 衣類生産の場で使われる用語だが、強く撚る(よる)とは一本一本の強度を上げることとなる。また、撚るとは「ねじり合わせる」を意味するので、そこからの連想も働く。つまり、日常の暮らしや仕事の場において丁寧に仕上げる大切さ、さらにはねじり合わせてより強く作り上げていく発想も視野に入れてみたい。


 もちろん、そのうえで齢相応にあまり重くならないような、絹織物とまではいかないけれどそんな姿が理想だな。ところで「新しい」はどうなるのか。まあこれは「資本主義」についた形容詞を真似ただけ…と、実はそちらの新しさについて懐疑的な自分から一言発すれば、格差拡大の言い訳になっていないか。


 ただ「」という字は「切り倒した木の切り口」が字源という説もある。新と打ち出したからには、具体化する切り口をお手並み拝見だ。シフォン主義としてもそのあたりを意識して、平凡な「なんでもない日々」が、ただ流されるままの「なんにもない日々」にならぬよう努めたい。ともあれ、書初めの一字は「撚」