すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

今は家にいよう、だけでなく

2020年04月19日 | 雑記帳
 今朝の新聞に、作家内館牧子の「今は家にいよう」というコラムが載った。彼女の見聞きした都会の方々の現状を嘆きながら、文章はこう展開した。

 こんな呆れ返ることばかりだが、ふと気づいた。
 「人間の生活を豊かにする行動」の多くは「不要不急」だったということにだ。

 ああ、なるほどと思った。
 その後に例示として「店での飲み食い」「美術館・劇場」「カラオケ・ジム」「コンサート」「旅・ドライブ」などが挙げられている。そして、こう続けられた。

 これら「不要不急」の行動が、どれほど人を元気づけ、弾ませ、明日への活力になっていたか。

 ますます、そうだなと思う。
 だが、ちょっと待てよ、微妙に違和感がある。

 挙げられたのは、結局消費文化なんだなあということ。それは都会暮らしをしている人にとってはごく当然なのだろう。
 地方に暮らす我々だって、そのミニ版やおこぼれ頂戴的な暮らしをしているとも言えるが、今回の感染拡大の要素の一つが、それらにあったこともまた自明ではないか。

 だからこそ今は自粛して我慢して、その暮らしを早く取り戻ろう…というのは、正直ではあるが、また短絡的ではないかとも思う。


 舗装しなくとも道はある

 もはや世界的に、今回の感染は「少なくともあと一年はソーシャルディスタンスを」というレベルに達している。この後もおそらくは、感染症の脅威と対峙する世の中が続いていく。
 当然、様々な文化の有様は変化を迫られるだろう。

 だから、視点を変えれば「見直すチャンス」でもある。
 個別の分野では積極的な動きも見える。
 しかし、一番考えねばならないのは都市集中、優先型の人口分布ではないか。

 コロナ感染の話題が始まった頃、新聞の投書欄に地元医師が投書した内容は、都会と地方とのギャップをこれを機会に改善しようという提言で、大いに共感したことを覚えている。

 今、家にいて考えを巡らせたいのは、逼迫してくる情勢への対策と同時に、現状と照らした未来展望でありたい。

絵本がもたらす時の価値

2020年04月18日 | 読書
 巣ごもり読書(自分はいつもだけれど…)のために。


 『絵本は心のへその緒』松居直(NPOブックスタート)




 今は一児の母親となっている長女が、生まれて何ヶ月ぐらいの月だったろうか。『いないないばあ』の絵本を見せながら読んだら、ニコーッとしたときの笑顔が忘れられない。絵本て凄いもんだなと感じた。以後は不真面目な父親であり、たいそうなことは言えないのだが、少しだけ関心の欠片は残してきたように思う。


 読み聞かせグループに入り、また非常勤ながら図書館に勤め始めたので、そこが膨らんできたのは確かなことだ。絵本について考える機会も多い。この本によると、1992年にイギリスで発案された「ブックスタート」(赤ちゃんに絵本を手渡す活動)は、現在日本でも広がり、全国の60%近い市町村が取り組んでいる。


 生後数か月の赤ちゃんに絵本は早いのではないか、という声も聞かれる。また、活動が早期教育と捉えられたりする。文字や数字を覚え、本好きになることに間接的な結びつきは考えられるにしても、その本質は違う。要は読み手と赤ちゃんとの、声を介したコミュニケーションをつくる手段としての価値の高さだろう。


 著者は絵本編集者を長く続けてきた経験を踏まえ、こう言い続けてきたという。「絵本は子どもに読ませる本ではなく、大人が子どもに読んでやる本」。子ども自ら本を読むことが読書推進の最終目標にあるはずだが、それとはまた別の視点がそこに色濃く出ている。つまり「読み手(親)と子どもが一緒にいる」ことだ。


 さらに「絵本は作者のものではなく、読み手のもの」とも書く。絵本が子どもの心の中にどう残るか、という点と大きく関わる。つまり「声の言葉」「一緒にページをめくる」感覚だ。何より「喜びを共にする」ことにおいて。だから本当に読み手が喜べる絵本を選ぶべきと改めて思う。その日がまた来ることを待って…。

という言い方のゴマカシ

2020年04月17日 | 雑記帳
 町の健診が中止になり、ブックスタート(乳児に絵本等を贈る事業)ができなかったので、直接自宅へ届けることにした。町内を車で回っている間につけていたラジオでユーミンの番組が流れてきた。日中に聴く習慣はないので、どこか新鮮に思える。ほとんど現在の感染症拡大に伴う日常が話題のベースになっていた。


 町内を廻り続けたら80Kmを超えていた。いい天気。

 その中で今年還暦を迎えたというある女性の投書の言葉に少しひっかかりを覚えた…「選ばれなかった人生」。今、感染症のことで皆不安が募り、自分の来し方に思いをはせる人は多いだろう。「あの時、ああすれば…」「こちらの道を選んだら、私は…」と想像した方も多いかもしれない。そんな思いで使われたと想う。


 詩的なフレーズであり、状況に照らし合わせれば想像できる。しかしまたそれは、あり得ない話なのだと承知しているだろう。それでも浮かぶのは性(さが)なのか。いや、「人生とは選択の連続でできている」とはわが師の言だが、そういう覚悟がないから「選ばれなかった」などと他人事な表現となるのではないか。


 そこにはもう一つ、人間は変わらない存在であると考えがちな性向も見てとれる。「癒し」という言い方がよく使われる。これはかなり以前から重宝された語だ。今日もラジオでパーソナリティが、「こんな時代だからこそ、○○で癒しながら…」と語っていた。そうそうと頷きながら聴けばいいのだが…。少し気にかかる。


 自分も「孫の笑顔に癒されて」と使いがちだ。しかしよく考えると、これは「変わらない自分」へ戻るための息抜きのようなイメージがつきまとう。実は人間とは身体成分さえ日々変わるものであり、脳でごまかしているだけだ。確かに取り戻したい日常はあるが、今の日々でも人間は常に選び続け、変わり続けている。

試され、問われていると思う

2020年04月16日 | 雑記帳
 二月の半ば頃だったろうか。職場の事務室で軽く咳ばらいをした人へ、冗談めかして「おっ!」と声を出したら、「そういうのは、コロハラって言うんですよ」と笑って返された。そういう余裕があった。今は正直、そういう反応はできないかなと思う。そこからの二ヶ月の経過、国や自治体の動きは深刻さを増している。


 何より心配していたことが今朝の新聞に載った。一定の信頼性はある記事だと思う。何より対象者にとっては「心的現実」であることは間違いないのだ。先月、日本赤十字の「新型コロナウィルスの三つの顔~感染するのは病気だけでない」という資料を見つけ、FBやブログでシェアしたり、館内に掲示したりした。


 幸いなことに目に留めてくれた人もいたようだ。その方々には少しでも「心のワクチン」になっただろうか。感染症は、「病気そのもの」をもちろん指しているが、それと同様「不安と恐れ」、そして「嫌悪・偏見・差別」が付きまとう。目に見えない特徴を生かして、人間の弱いところに付け込むと言っていいだろう。


 今年も早蕨を見つけることのできる幸せ 2020.4.16

 試されている、と思う。まず自分自身がどう向き合うか。そして、家族も含めた周囲との関わり。築き上げてきたことは本物か。国や県、市町村単位の動きは、私達が選び作りあげた組織が機能するかどうかに過ぎない。問われている、と思う。いったい、何を守りたいのか。誰を守りたいのか。そのためにどうするか。

「よい子の日」は間が悪い

2020年04月15日 | 雑記帳
 「間が悪い」という言葉が浮かんだ。昨日は今年度初の図書館だよりの完成に向けて精を出した一日だった。かなり前から内容や配布等を考えていたが、なかなか妙案が浮かばず、ようやく先週末に固めたところだった。自前ではあるがA3版プリンターを活用して仕上げると決めた。メール添付も止めることにした。


 月1回ペースは変えないが、展示・配布先によって少し中身を変えることにした。半分は共通欄にしながら、残り半分を「小学生向け」「中学生向け」「一般」とする。小学生には「おすすめ本」を2冊大きく載せる。中学生と一般には読書カレンダーと称して、その月の「今日は何の日?」を表としてつけることにした。



 「何の日」の話題からテーマを拾って、おすすめ本を3冊紹介していく形だ。中学生向けの図書、一般向けとその部分は独自なものとする。このアイデアはなかなかいいと密かに自画自賛したが、もはや4月も半ばになり急がねばならない。いくつかの学校に電話を入れ、明日訪問する旨を伝えた。あとは、印刷だ。


 と少し勇んで帰宅したが、待っていたのは「湯沢保健所管内での感染者」があったとのニュース。とうとう来たかと思う気持ちと残念が交錯する。おそらく、厳しい制限が待っている。しかしやむを得ない。朝刊には隣市小中の休校決定が載っていた。本町でもすぐ会議が開かれ、今後の対応が打ち出された。全面休館。


 「間が悪い」は広辞苑に「①きまりが悪い。ばつが悪い ②運が悪い。折が悪い」とある。①も②も含まれる心中だ。さて、感染症による災禍は「運」「折」となるが、この慣用句のキーワードは「不幸せ」。類語として挙げられるのは「因果」「奇禍」「逆運」など。今日4/15は語呂合わせから「よい子の日」だというのに…。

その目標は言霊となるか

2020年04月14日 | 教育ノート
 師と仰ぐ野口芳宏先生から直接聞いたお話には、ずっと心に留まっていることがいくつもある。この時期になると思い出すのは、ある学級目標の文言のことだ。教室前面の掲示には「すべてのことに一生懸命取り組もう」と書かれてあったという。これをご覧になった先生は、言葉が大事にされていないと言い切った。


 「すべて」の意味は当然全部であり、それは人間である以上到底無理なのである。もちろん、提示した担任教師の意図はわかる。常識的な範囲も理解できる。しかしだからといって安易にそうした文言を許すのは、言葉に対する冒涜なのだと師は仰った。問題は行動であり言葉は記号に過ぎないという考えには与しない。


 では、この場合どんな文言を選ぶのか。担任の意図を察すれば「様々なことに対して、手を抜かず、力を出し切って がんばろう」か。どこに焦点があたるかと言えば、きっと「力を出し切る」ことと予想する。それを短く熟語かフレーズで表したらどうか。「全力」だけでもいい。「力一杯」「パワー全開」も面白い。


 仮に「すべてのことに…」をそのまま掲げるなら、細かい砕きが必要だ。具体的には「この『すべて』は何を表すか」「『一生懸命』とはどんな姿を表すか」を子どもへ問い、答えられた言葉を生かしながら補足的なフレーズを決める。「学習も生活も、めあてを持って取り組む」「知恵と工夫を出し合う」などが出るか。


 それにしてもありきたりだ。いや仮によくある語であっても肝心なのは言葉に込める願い、考えだ。機会を捉え、その語に実践、活動を塗りこめていくのが実践だ。そうすることで目標は「言霊」となる…神憑りめいてきたか。何しろ我が日本は「言霊の幸(さき)わう国」。呪われた情報の渦から脱する信念を持て。

3密はどうぞ夢の中で

2020年04月12日 | 雑記帳
 「スマップじゃなくて、嵐のコンサートに行った夢を観た」などと還暦の家人がしゃべるので笑いながら聴く。相葉くんの髪が薄くなっているので「束ねたらいい」と言ったら、私が横から「角刈りにしろ」と口を出す。そのうちにタオル回しが始まるようなので、後ろの人から盆踊りの手拭いをもらって回し始めた…


 他愛もない夢のことを書いたのは、これはもしかしたら「3密」願望かと思ったからだ。「密閉・密集・密接」…今、日毎に意識すべきこの鉄則は人間相手の教育にはきつい。図書館行事も延長を決め、会場変更も視野に入れている。本当は、限られた範囲の場所で密接に交流できることがねらいの一つだったのに…


 非常時と割り切って、できることをやるしかないな。大好きな大相撲も先行きが大変なことになっている。馬鹿話ついでに思いついた代替案は、対戦相手も行司も2メートル以上離れて行う。土俵の上に円形の大きな台を上げ、その上に自作の紙人形を立たせ、バンバンしたらどうか(大笑)。バラエティなら通用するか。


 身体的接触が避けることが至上とされ、人間はますます「自然」から遠ざかることになる。もちろんテレワーク等を初め、様々な工夫、変革を否定はしない。しかし「頭」だけあれば出来るような状態が蔓延していくのは避けたい。観光地の花見も駄目なら、せめて野山で恵みを得るような身体と心の動かし方をしよう。



 ということで、春の野山の恵みシリーズ第一弾。
 今年初の恵み、スジノコ、タラノメ、フキノトウの天ぷら。


 ★情報拡散の意味を込めて、長野県茅野市のホームページから、コロナ対策の「地方版」が有益だった。
 FBでも紹介した。

https://www.city.chino.lg.jp/book/list/book133.html

https://www.city.chino.lg.jp/uploaded/attachment/12682.pdf



桃太郎では退治できない

2020年04月11日 | 読書
 昨日書いた『桃太郎は盗人なのか?~「桃太郎」から考える鬼の正体』に載っていた、調べるきっかけとなった絵本『空からのぞいた桃太郎』(影山徹 岩崎書店)が、図書館の開架にあったので読んでみた。文章そのものは、私達の多くが知っている筋であり、脚色めいてはいなかった。何よりこの絵が素晴らしかった。



 鳥瞰、俯瞰で全編が貫かれているユニークな構成に驚かされる。登場人物の顔や身体などはアップにされないが、可愛らしさや素朴さが感じられる。緻密で景色の表情も豊かだ。小人数を相手に絵をゆっくり見せながら読み聞かせしたいなあと思う。きっと幼い子でも、見え方はいろいろあると感じてくれるだろう。


 何事も今の災禍と結びつけてしまいがちだが、現在のこの国の様子を俯瞰してみたらどうだろうと考える。首都圏だけでなく緊急事態宣言の出ている場所では、懸命にふんばっている医療関係者、担当や関連部署職員、そして必死にアナウンスを続ける研究者たち、情報を受けとめ出来ることをしようとする人たち…


 あたふた動かねばならず疲れ切っている人、我関せずと勝手にふるまったり、傍観的姿勢をとったりする者も見える気がする。もっと視点を上げて全国を見渡せば、都会から地方への流れにそって確実にタイムラグ的発生があると備える人もいれば、ポツンと一軒家のような地には来やしないと、たかを括る者もいる。



 そういう想像を働かせることは、自分の位置を見極め、行動の選択・決定に少しは役立つだろう。信頼できる情報に目を向けたい。絵を見ながらさらにもう一つ想うのは、疫病という鬼は人間そのものだということ。そして増殖していく。当然ながら桃太郎や少数の家来の活躍で退治できるわけではないということだ、

桃太郎を追った追究の鬼

2020年04月10日 | 読書
 こんな記事を書くほどなので、私にとって「桃太郎」は一つの視点にもなっている。何気なく新刊本のコーナーを眺めていたら、一冊の題名が目に飛び込んできた。『桃太郎は盗人なのか?』そして副題は「『桃太郎』から考える鬼の正体」とある。ナニナニッ、著者は倉橋よつば。表紙写真をみると、小学生らしい。


 なんと「図書館を使った調べる学習コンクール」で文部科学大臣賞をとった子らしい。それにしても単行本化される内容なのか…この辺りのいきさつは出版社の社長が「あとがき」として記してある。内容を読了してからそれをみたが、納得の出来映えであった。有田和正先生が生きていらしたら、絶賛しただろうな。


 つまり桃太郎の正体や鬼の存在について、小5の女の子がまさに「追究の鬼」と化している。もともとこのコンクールでいい賞を取っていた彼女が、副賞としてもらった一つの本への疑問をきっかけに、桃太郎研究に取り組むのは、出来過ぎともいえるが、環境が備わっていたこと以上に好奇心の塊がドンと伝わってくる。


 江戸時代まで遡り、桃太郎がどんな描かれ方をしていたか追究していく。大人としては、江戸から明治・大正・昭和と軍国主義へ進む世相も絡ませたいところだが、そんな色気もなしに真っすぐその当時の書いた人と向き合い、自分の感想を積み重ねている印象だ。調べていく中で関わる様々な人との出会いも楽しい。


 第四章に「得体の知れないもの・理解できないものを『鬼』とすることで、人は心を安定させていた。時代の流れと共に鬼の正体はかわってきた」と書かれてある。昔は、「疫病」もその一つだったはずだ。今の感染症も一部解明できず鬼化しているとも言えるが、それ以上に、国難に立ち向かうべき私達を見渡せば、「上」にも「横」にも鬼がうじゃうじゃしているか

鉄のマスクでもシゲテおけ!

2020年04月09日 | 雑記帳
 TVを観ながら、「この人のマスクのシゲガタよお…」と声に出したとたんに、「シゲル(ゲは鼻濁音)?」と自分で言ってしまうほど、懐かしい響きだった。家人にはかろうじて通じたが、ずっと長く使っていなかった秋田弁である。マスクの他にも使っていたはずと思い起こすが、眼鏡ぐらいしか思いつかなかった…。


 普通「マスクをする、付ける、かける」と言うが、それを「シゲル」というのは眼鏡との共通性を考えると「はめる」というような動作か。愛読書『秋田のことば』の見出しにあり、「はめこむ」と意が記されている。解説に「すげる」という語がありその訛か。「糸や緒を穴に通して結ぶ」の意味に、似た部分がある。


 もう少し連想を働かせると、「入れ歯」や様々な道具類でも使った記憶がある。それらはかなり「はめ込む」イメージが強い。しかし、マスクや眼鏡を顔にする行為をそう呼ぶ人は今どきいない。おそらく昔はそれらの着用が珍しかったので、その動作に当てはまる特定の語彙もわからず、代用?したのかもしれない。



 それにしても「布マスク2枚」が届かない(笑)。緊急事態宣言地域から順次なので無理もないか。ただ、あまりの混乱に忘れそうだが、経済産業省が「マスクを慌てて買い置きしなくても大丈夫です。厚労省や企業の皆様と連携し、毎週1億枚以上、お届けできるようになりました」と言ったのは、2月12日だった。


 当然政府も会見で述べた。それが二ヶ月経ってこの状態だ。「安心・安全」「丁寧な説明」を繰り返し、結局実行が伴わないのはいつもの事だが、今回は見過ごせない。また、その失態を布マスク2枚で拭えると考えた発想に唖然とした人は多い。布や不織布ではなく、鉄のマスクでもシゲテおけ!と言いたいぐらいだ。