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「間抜け」の正体

2014年04月26日 | 読書
 「2014読了」45冊目 ★★

 『間抜けの構造』(ビートたけし  新潮新書)


 ビートたけしが「間抜け」と口にしたとき、その範囲はおそろしく広いだろう。

 軍団や若い芸人について語る場合の表面的?な言葉と、世界に輝く北野武監督が語る言葉では、意味はつながっていてもその深さにかなり隔たりがあるのではないか…。

 まあ、そんな期待をもって、この本を読んだが、その語り口は多くがビートたけしであったなあ。ただ、裏(表?)は北野武の部分がきっちりと出ていて、特に「映画の間」についてはさすがと思わされた。

 「間」という言葉の意味はずいぶんと広い。
 「間抜け」に通ずるのは、おそらく「ほどよいころあい」「その場の様子」といったところが中心になろうが、空間的、時間的という本来の間ともつながっているので、考え始めるとより分からなくなる。

 読み進んでいて、自分なりにイメージが湧いてきたのは、「鳥の目・虫の目」ということだ。マクロ視点、ミクロ視点の自在さが「間」ということではなかろうか。

 どういう行動を「間抜け」と称するかは、語る人の価値観にもよる。

 しかし大抵の場合、物事の大枠をとらえていない人は失敗を犯す。
 また、細かい部分に目が行き届かず、ずっこけてしまう人もいる。

 どちらも兼ね備えている人もいるだろうし、偏っている人もいる。どちらも身につけられず途方に暮れている人もいるだろう。
 「間」による人物評価は、そこを表しているに違いない。


 しかしその尺度も、どの高みで語るかで変わってくる。
 語りにくい深遠な?ことばなのかもしれない。

 ある雑誌を読んでいたら、かの太宰治が川端康成を批判した言葉が載っていた。

 「あなたは、作家というものは『間抜け』の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなければならない。」

 作家が「間抜け」の中を生きる存在ならば、それは「人間」から「間」を抜いて「人」であろうと喘ぐからそうなるのだろうか、と言葉を弄んでみた。

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