すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「10歳の壁」に向き合うため

2012年10月17日 | 読書
 『子どもの「10歳の壁」とは何か?』(渡辺弥生 光文社新書)

 どの学校でもそうだとは思うが、職員室で学習だけでなく生活のことも含め頻繁に話題になる子はいるだろう。先週は結構そういう話題が多かったなと思いながら、この本を読み始めた。

 シングルエイジ教育と特化した研究団体もあるくらいだから、学校に勤める者はある程度発達段階について理解はしているだろう。キャリアを踏んだ教員であれば、その点を把握した授業づくり、学級経営も意識しているはずだ。

 しかし、では具体的に「10歳の壁」は、と問われた時、明確な例示を持って答えられる自信はどのくらいの方が持っているだろう。
 子どもは様々だから一律に答えられないという方向に逃げて?しまうようなこともあるかもしれない。

 この本は、そんな私自身の不安に応えてくれた。多くの研究成果を専門的な知見も交えながら、わかりやすく説明している。また、初めて知ったことも結構ある。
 学習用語的に示せば「二次的信念」「入り混じった感情」「他者覚知」「役割取得」…。

 これらの区分・段階によって、10歳は大きく変化が見られる歳なのである。教師なら少なくともいくつかの観点をしっかり持ち合わせている(確かめる)必要があると思う。

 職員室で話題にされる子は10歳だけではないが、発達段階としてどの面が足りないのか、その原因はどのあたりにあるのか、それを探るために、教示を得られる著だ。

 今、おそらく増え続けている未発達な部分が目立つ子の存在に、私たちが適切に対応しどんな働きかけをすべきかを、こうした研究成果や実践提案をもとに行っていくことは、非常に優先度の高い課題と思われる。

 本のエッセンスを紹介する形を取りながら,自校でも強調していきたいと感じた。

話を練り上げる芯

2012年10月16日 | 雑記帳
 ある講演を聴いた。
 講師のキャリアをみると役職も重ねてあるし、各地に招かれたりしている方である。
 かつて一回お話を聴いたことはあるが、印象が薄い。
 なぜ、覚えていなかったのか、そのわけがこの2回目でわかった気がする。

 1ページびっしりにレジュメが準備されていた。
 内容は、テーマにそって確かに大事な間違いのないことだった。
 発声発音も悪くはなく、強調のための抑揚も感じられる話しぶり。
 順序もほぼ予定どおり、その中身によって軽重はつけられていたが、80分きっちりで最後にたどり着いた。

 それなのに、なぜ響かないのか。

 圧倒的に少ない具体的なエピソードである。
 誰しも経験するような、見聞きするような一般的な例示という形は当然示されるが、個人的な例がほとんど見られない。

 ということは、実感が伝わってこない。
 従って、示された大事な言葉も「ご説ごもっとも」という程度?で止まってしまう。
 実感あるエピソード。
 やはり聴かせる話はここが芯になる。

 と、多くの人が知っていることを今更のように書いた。

 ただ、今回の講師の方も具体的なエピソードは持っているのである。
 それは質疑応答の時に垣間見られた。特に少し余った時間に「最後にちょっと話したい」と付け加えた、現役教師時代のある授業のひとコマは、実に鮮やかに伝わってきた。

 与えられたテーマとの相違はあっても、その場面を切り口に持ってくることはいくらでも出来たはず…話を練り上げるとはそういうことだろう。

 解説者のつもりで記したわけではない。我が身に生かしたい。生かせるはずだ、という願望である。

名は,深く豊かなものだが…

2012年10月15日 | 読書
 『歴史を考えるヒント』(網野善彦 新潮文庫)

 裏表紙にこんなことが書かれている。

 日本、百姓、金融……。歴史の中で出会う言葉に、現代の意味を押しつけていませんか。

 比喩表現ではあるが、「押しつけ」とは少々手厳しい。知識のない者は知識のないままに意味をとらえるのは普通ではないか。
 つまりここは「押しつけられてきたことを素直に受け取るな」という警告なのだなということがわかる。

 この本には、その押しつけられてきた歴史が多く載っている。
 普通「語義」などに興味を持つ人は少ないだろう。
 しかし、ここで最初に扱われるのは、この「日本」という言葉である。
 内田樹氏の著書にもその記述があったはずだが、この表現は明らかに西方つまり大陸から見た位置そのものである。

 ただ、私にはその事実より、この国名がずっと続いてきたことが、一つの驚異のように思えてくる。
 そして今まで、自分がその名前が「いつ」決められたかについての知識を全然持っていなかったことも。
 多くの人もそうではないか。鎌倉幕府や江戸幕府の年号は知っていても…。

 「日本」や「関東」などの地名、「百姓」「人民」などの呼称についてあれこれが語られる。
 個人的には「道」「土」「ケガレ」といったことの部分が楽しく読めた。

 説得力があり興味深いが、学術上の定説とまではなっていないようだ。
 いずれにしても、名付けは、「分かる」ために「分ける」作業を通して進行される。
 その過程の中でどういう言葉を選択するかは、大きい。
 歴史のなかで行われた選択作業が、意図的であれ偶然であれ,その後を左右する一因になっていることは疑いようがない。

 名は深く豊かなものだが、怖ろしさもごろごろ転がっている。

秋の恵みにめぐりあう

2012年10月14日 | 雑記帳
 私的なことでビデオ編集をし始めた。
 無料ソフトを利用しようと思うが,知識があまりないので四苦八苦である。
 PCをいろいろと操作していると,ネット環境が突然変わったりして元に戻すのに,ずいぶんと時間がかかった。
 昨日も,朝の2時間ほど格闘した。

 ああ休日でよかったあと思う。
 本当はキノコ採りにでもと考えていたが,朝の雨で諦めたのだった。
 二週間前にちょっと山へ足を踏み入れたときは,夏の暑さと少雨のせいでかつてないほど乾いていて,これでは恵みは得られないかなと思った。
 ここに来て,ようやく秋らしくなり,ずいぶんと涼しくなった。

 先日,毎年いく場所で栗ひろいをした。
 朝の比較的早い時間帯だったろうか,久しぶりに耳にした栗が木から落ちる音。
 そして,少し経って,その落ちる瞬間も目にした。

 先月下旬まで夏気分だったので,この「秋」は短く感じるだろう。
 ひと月後には,雪もちらつき始めるかもしれない。
 一つ一つの風景を目におさめておきたいと,写真も撮りだした。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-99a3.html

もし被疑者になったら読もう

2012年10月12日 | 読書
 『終の信託』(朔 立木  光文社文庫)

 本の帯にある映画化が気になって買い求めた文庫だ。
 中味は表題作ともう一編、どちらも主な舞台として検察庁が取り上げられる。
 作者は現役の法律家。実在の事件をモデルにしながら描かれたらしいが、特に検事による尋問の場面が秀逸だ。

 尋問の言葉とは、こんなふうに使われるものか。
 こんなふうに誘導されていくんだな。
 対象の言葉や気持ちを利用して、この後の展開が有利に進むように言葉を選び、追い込んでいく。
 二編とも主人公は被疑者だが、流れをリードしていくのは、かなり「悪人」の検事だ。

 結論が既に出来上がっているものへ、どう落とし込んでいくか。
 それを目指している人には、対象者を真に理解しようなどという考えはない。
 対象者の心情や言葉が、結論に対してどう有効か、またどう障害になるか、という点のみである。

 自分がもし、不幸なことに何かの被疑者になったら、この本を再読して、検察庁へ出向きたい。
 そんなことがないように願っている(笑)。
 でも誰にだって、その可能性はあるはずだから、この本は参考になると思う。

「分人」を語る自分もまた分人

2012年10月11日 | 読書
 『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎 講談社現代新書

 著者が芥川賞をとって少し経った頃に、その小説を読もうとしたが葉が立たなかった。正直、その難しい言葉の連続に辟易したことを覚えている。
 その後、IT関係の対談本を一冊読んだと思う。
 あまり視野に入っていなかった作家だが、今回手にとったこの本は、いかにも新書らしく、私のような者にもするっと入ってきた。

 著者の「提案」は、面白い。
 かなり、使える。
 大雑把に言ってしまえば、こうなるだろう。

 自分という存在の見方として「分人」という単位を導入することによって、生き方や人間関係を見つめ直そう

 これに類似しているように見える考えは、かなり頻繁に流布されている。
 例えば「人には様々な面がある」「いくつものキャラを持っているのが普通」「性格の多様性」…。

 しかし、そのような論を聞いても、なかなか消せなかったのは、「本当の自分はちがう、どこかに必ずいる」とか「本当の自分には一番価値がある」とかいう、思い込みではなかったか。

 こうした思考や感情は蔓延しているし、それをテーマに書かれた文学作品等はずいぶんとあるように思う。今、自分のお気に入りの作家の名前も思い浮かんだ。

 それに対して平野が唱える「分人(主義)」は、訳語としての「個人」の成立から紐解き、個人という思想が現代に合わないものだとする。

 人はいくつもの「分人」によって構成される、そしてその価値に優劣はないが、自分の好きな分人を拡げていくことで、この複雑な社会に対応していけるのではないか、という考えは、肩の力をふっと弛めてくれる。
 また、人との関わりの煩雑さに滅入る心身の処方箋ともなるだろう。

 ネット、教育、恋愛…身の回りの出来事も含め、わかりやすい例示のある著だと思う。
 シンプルだが、骨太な提案だ。

 自分自身はもちろん、他者の見方つまり他者の分人を想像してみることは、私たちに一回り大きな余裕のある日常をもたらすように思った。

理解から表現が生まれる

2012年10月10日 | 読書
 勤務校では、近隣の養護学校との定期的な交流を進めている。
 ずいぶんと以前から継続されていて、子どもたちも抵抗なく受け入れている。今年度初めてその交流を目の当たりにして、いろいろと考えることが多い。子ども以上に刺激を受けているような気もする。

 さて、今年になってからいわゆる障害児教育に関する本は読んでいなかったこともあり、先日、青森の駒井先生のブログで紹介されていた本を購読してみた。

 『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』(向野幾世 扶桑社)

 復刊された本であり、実際には30年以上前の出来事となる。その間に障害児教育を取り巻く環境整備は、大きな前進があったが、著者のような方々が多くの地方にあって、真摯な努力を続けたことを改めて認識した。

 この本の中心となる「やっちゃん」の感動的な詩が出来上がる陰には、当事者である母親をはじめ、多くの方の支えがある。そしてその作品は、やっちゃんと著者たちとの心の通い合いの結実であることは間違いない。

 言語活動が不自由な子の作品が多くあり、それらは、私の大きな関心の一つである、どんなふうに最終的な言語化をするかという問いを膨らましてくれた。
 その問いは養護学校との交流活動の実際において感じていたことだった。
 感想発表の場などで、児童の代弁をする職員の姿を見ながら、どのようにして読み取るのか、正直見えてこなかったからだ。

 この本を読みながら、当然といえば当然ながら、いくつか気づく。

 一つには専門的な技術を駆使して、仕草や表情の特徴を読み取ること。
 もう一つは、その子の家庭環境や関わりの様子、願いなどを、まるごと理解することに努めようという気持ちである。

 後者が伝わってくる。
 「理解があるから表現が生まれる」という姿の典型を見る思いだ。
 たぶんこれは、私たちが通常学級で表現指導などをする場合も同じではないかと思いめぐらす。

 それにしても、「やっちゃん」の詩に限らず、心打たれる作品が多かった。

 言葉に行きつくまでの「距離」が長いからだろうか、と想像してみる。
 また、単にどんな言葉を選ぶかということではなくて、自分の心、思いがどうしようもなく重く辛くなっていて、それを抱えて言葉にたどり着くための「時間」が長いからだろうか。

 安易に手に取り、選んだりできることの軽さは、言葉そのものに乗り移ってしまう。
 そう感じつつ過ごしている自分のどうしようもなさに,しばし沈黙。

ささやかな「なべっこ」の温かさ

2012年10月09日 | 雑記帳
 先週金曜日、学校で「なべっこ会」があった。

 注(笑) :「なべっこ」とは、秋田県沿岸部・内陸南部で使われている言葉だ。全国的には山形の「芋煮会」という名称が有名だ。しかし、地区によって味つけは異なる。参照は以下に)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8B%E7%85%AE%E4%BC%9A

 同日開催の校内マラソン大会は風雨のため中断した形となったが、その後の「なべっこ」は材料も買い揃えてあるし、招待者もいるので、少し残念だが校内での煮炊き、会食となった。

 しかし、私には前任校でその行事がなかったので、4年ぶりに味わうことになった活動であり、やっぱりいいなあと感じた。
 「精選」の名のもとにカットされた多くの行事があるなか、秋の日のこうしたほのぼの感の残る活動は、子どもたちにとって貴重な時間だと思うのだが、どうだろう。

 あくまで個人的な体験ではあるが、この活動の変遷をたどってみれば、学校がいかにゆとりなくなっているか、はっきりわかるような気がした。

 その昔は「なべっこ遠足」だった。
 これは自分が中学・高校の頃もあったし(いったい何年前のことを話しているのか)、教員として務め始めた時期もまだ存在していた。
 秋、一日日程で近くの山まで歩いていき、そこで鍋を作り、遊んでくるだけ。30年ほど前の大らかな光景である。

 次の段階は「遠足」ではなくなった。
 校庭を使い、煮炊きをする。マラソン大会とセットになって、秋の半日を楽しむのだった。
 学年縦割りなどで集金をし、買い物なども子供たちに任せるのが普通だったが、O-157の食中毒騒ぎのあたりから少し様子が違ってきた。
 確かその年は、肉だけは全部一律に学校サイドで準備して配るといった方法がとられた。「肉係」として手配し、グラウンドに散らばった各グループをマイクで呼びかけたときもあったなあと思い出す。
 これが15年ほど前か。

 学校規模や環境によっても違うだろうが、もしかしたらこの頃からこの行事の有無の検討が始まったのかもしれない。

 当日は、がんがん(灯油の空き缶などで作った煮炊きの台)やなべ、包丁など必要なものを、全部分担して登校するのが普通だった。そのため一輪車に入れて押してくる子もいた。
 そういう風景も、安全上の問題が指摘されたり、家庭だけで揃わなかったりして、学校側で準備するものが多くなった。
 かつては、持ってくるものの分担でもめることもあったものだ。

 従って、現在は、材料と小物ばかりを分担する形が多いのではないだろうか。
 安全上のことや時間の節約もあり、材料も入れればいいように家庭で切ったり刻んだりして、入れればよいだけという形になっている。

 そこまでして何の「体験」か、と思う向きもあろう。

 しかし、ほんのわずかの手間であっても、自分たちで作った鍋を囲む時間はやはりそこに温かさがある。
 給食では食べられないネギを、美味しいとばくばく食べる子の笑顔がうれしかった。

 かくして20グループすべての「なべっこ」は完食された。

 このささやかな温かさは、なくしたくない。

子どものことはどうでもいい国

2012年10月08日 | 雑記帳
 昨日の午後,武田邦彦氏の講演を聴いた。

 案内やチラシには現在出演しているテレビ番組のことが書かれていた。しかしふだん見ていない番組なので,そういえばそうだったという感じである。

 それより私が注目したのは,岩井俊二監督の震災のドキュメンタリー映画だ。原発に関して,いわゆる「転向」と周りから批判され,自らも主旨は違うが「転向」を認めて発言していることに興味が惹かれた。

 町の生涯学習の一環で「家庭で行う正しいエコ生活とは」と題された講演だったが,予想通りに話は原発問題から始まった。

 「今日は女性が多いからいいですが,男性しかも50代以上は頭が固いから,私の話を聴くと怒り出すかもしれない
と前置きした内容は,さすがに刺激的だった。

 地球温暖化の話,石油埋蔵量の話,諸外国との関係…今まで耳にしたことのない切り口で話が進む…さすがにマスコミ露出も多い方なので弁はたつし,笑いも誘う。しかしこりゃあ,批判は多いだろうな,と素直に感じた。

 帰宅してネットで検索してみると,自身の広報,論評活動も積極的であるが,いやいや他からの批判攻撃もかなり目立つ。
 科学的な論証が必要なこと,歴史的に決着のついていない問題など素人には判断がつかない。どれを信じていいか正直にはわからない。

 ただ真偽はともかく,武田氏が述べたことの論理は筋道が通っていたと思う。
 私が抱いている関心にフィットした一言は,実は本当に重い現実だし,それはやはり認めなければならないのではないか。
 武田氏は,こう語った。

 この国の大人の基本認識は「子どものことはどうでもいい」である

 子どもに勉強せよと言うけれど,学校を出たあとに職を準備できないような社会を作っている我々は,やはりどこかで道を間違えている。

 愛知の玉置校長先生が,自校のホームページに研究大会で聴いた山中伸弥教授の講演をまとめていらしたが,かの研究所で働く9割が正規採用でない実態があるそうだ。
 http://swa.komaki-aic.ed.jp/weblog/index.php?id=komaki_j&type=1&column_id=85295&category_id=1196

 多くの網が絡まっている状態で抜け出せなくなっているイメージが浮かぶ。鷲掴みにして振るってみようという人もいるだろう。どこかの水面に浮かべることも方法の一つか。
 現状への様々なアプローチはあるにせよ,先ずは根気よく身の周りの網をほぐすこと。武田氏の話もその一つのヒントだと思う。

下降線の中で未知数を探す

2012年10月05日 | 読書
 『きのうの神さま』(西川美和 ポプラ文庫)

 『ゆれる』という映画が面白く、西川美和には注目していたが、まだキネマ旬報の09年ベスト1となった『ディア・ドクター』は観ていない。
 今年の『夢売るふたり』も評判がいいようだが、やはり秋田市まで出かけて…とまではいかない。
 まあ所詮その程度の関心なのだが…「直木賞候補作、ついに文庫化」という本の帯に惹かれて、つい買ってしまった。

 全五編、うち四つに医者が登場する。
 映画『ディア・ドクター』は「僻地の医療」が題材らしい。
 その取材を生かす形で「映画の時間軸では語りきれなかった、さまざまなエピソードや人々の生き方を、この本の中で蘇らせた」と著者はあとがきである「謝辞」で書いている。

 確かにそんな趣で、この短編集のなかにある「ディア・ドクター」は、いうなれば親子と兄弟の確執が中心になっていて、題名は同じだが僻地という設定でもなく、まったく別モノであろう。

 そうなると「ありの行列」「満月の代弁者」の二つが、僻地の医療が語られているし、多少映画にも反映されているのかもしれない。

 島や半島の漁村なので、私の暮らす山村部と安易に比較できないかもしれない。しかし、高齢化や介護の現実は似通っているものがある。
 それをテーマに筆者が描きたかったことは何なのか。

 例えば「生の全う」ということだろうか。
 例えば「病とは何か」ということだろうか。
 例えば「なだらかな死への下降線をどう見るか」ということだろうか。

 様々な受け止め方ができるなあと思った。
 そこが魅力と言えるのかもしれない。

 さて、「ノミの愛情」という作品では、外科医の妻に納まった元看護婦の日常からの脱却が描かれる。
 磨き上げられた階段で転倒し重傷を負った夫を、救急車を待つ間に手当をしながら「生きているって、こんなに楽しい」と思う感覚に、筆者の意図を垣間見る思いがした。

 文中の言葉を借りれば「未知数」なのである。
 救急救命の現場にいた妻は、言うなれば未知数との出会いが文句なく多かったことで得ていた生の実感を取り戻したかった。

 それを他の作品に当てはめようとした時、見えてくるのは個や集団にある内的な未知数との遭遇を求めることか。

 独りよがりに結論めいてみたが、誰かに示された下降線の中で(言うなれば人生はみんな下降線という見方もできるが)、未知数を探すことほど面白いことはないのかもしれない。
 そこには,見つけやすいことと見つけにくいことの区別があるだけだ。