職場に送付されてきた『小学校時報』の特集が「食育・健康教育」ということで、冒頭にかの服部幸應氏の文章があった。
いわゆる「食育」の立役者のお一人で、これまでも何度かそれに関連した文章を見た気がするが、今回のはなかなか惹きつけられた。
特に「食育に取り組むきっかけは若者の乱れた食生活」と題された章は、二十三年前の服部栄養専門学校の学生たちを取り上げ、その食生活の実態を、赤裸々に述べている。
服部氏は、学生の新入時に一週間の食事日記を提出させ、その結果のバランスの悪さを把握した。そして食事についての専門的な知識や技術を学ぶ2年間で改善するように言い渡した。
そして2年後、再度一週間の食事日記を提出させた服部氏は、その結果に大きなショックを受けたのである。
改善率を数値にして算出した結果は、わずか6%だったのである。
半数程度の改善を予想していた服部氏は「目を疑いました」と書き,この結論を得る。
頭では理解しても、それがいざ自分の生活習慣となると、驚くほど活かされていない
青年期における食生活改善はすでに遅いことを悟り、正しい食習慣を幼少の頃から…という願いで、今の取り組みに至っているということである。
しかし、おそらく様々な書籍やメディア等で指摘されているように、家庭内の食事はかなりのスピードで崩れかかっている現状がある。
そういう実態を踏まえて、社会教育などによる啓蒙もあるにはあるが、やはり学校教育において推進しようと持ち出されてきたのが食育の大雑把なところではないか。
今の食生活の現状をどうみるかを、親・保護者の世代に問いかけて、どの程度の反応があるものだろうか、少し心配である。
それは家庭教育の衰退ばかりが原因とは言えないからだ。
私たちを取り巻く食産業、流通産業の方向ひいては自給や経済全体が影響を与えていることは間違いない。
それを「食育」、学校においては「食に関する指導」で改善の糸口を見つけようなどとはどこかピントが甘いような気がする。
もちろん「食育否定」ではない。やるなら、もっとダイナミックに舵をとらなければ、食生活改善には結びつかない。結局のところ栄養専門学校の生徒にように「頭でわかっていても」の状態となるのではないか。
服部氏が求めているのは「食卓」を取り戻すことだ。
それはもはや食の問題ではなく、政治経済の問題であり、価値観の問題であると思う。
いわゆる「食育」の立役者のお一人で、これまでも何度かそれに関連した文章を見た気がするが、今回のはなかなか惹きつけられた。
特に「食育に取り組むきっかけは若者の乱れた食生活」と題された章は、二十三年前の服部栄養専門学校の学生たちを取り上げ、その食生活の実態を、赤裸々に述べている。
服部氏は、学生の新入時に一週間の食事日記を提出させ、その結果のバランスの悪さを把握した。そして食事についての専門的な知識や技術を学ぶ2年間で改善するように言い渡した。
そして2年後、再度一週間の食事日記を提出させた服部氏は、その結果に大きなショックを受けたのである。
改善率を数値にして算出した結果は、わずか6%だったのである。
半数程度の改善を予想していた服部氏は「目を疑いました」と書き,この結論を得る。
頭では理解しても、それがいざ自分の生活習慣となると、驚くほど活かされていない
青年期における食生活改善はすでに遅いことを悟り、正しい食習慣を幼少の頃から…という願いで、今の取り組みに至っているということである。
しかし、おそらく様々な書籍やメディア等で指摘されているように、家庭内の食事はかなりのスピードで崩れかかっている現状がある。
そういう実態を踏まえて、社会教育などによる啓蒙もあるにはあるが、やはり学校教育において推進しようと持ち出されてきたのが食育の大雑把なところではないか。
今の食生活の現状をどうみるかを、親・保護者の世代に問いかけて、どの程度の反応があるものだろうか、少し心配である。
それは家庭教育の衰退ばかりが原因とは言えないからだ。
私たちを取り巻く食産業、流通産業の方向ひいては自給や経済全体が影響を与えていることは間違いない。
それを「食育」、学校においては「食に関する指導」で改善の糸口を見つけようなどとはどこかピントが甘いような気がする。
もちろん「食育否定」ではない。やるなら、もっとダイナミックに舵をとらなければ、食生活改善には結びつかない。結局のところ栄養専門学校の生徒にように「頭でわかっていても」の状態となるのではないか。
服部氏が求めているのは「食卓」を取り戻すことだ。
それはもはや食の問題ではなく、政治経済の問題であり、価値観の問題であると思う。