すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

野蛮人入門妄想

2011年12月16日 | 読書
 『身体を通して時代を読む ~武術的立場~』(甲野善紀・内田樹 文春文庫)

 この本の「文庫版のためのあとがき」に記されていることである。対談している二人と、名越康文、茂木健一郎の諸氏が招かれた養老孟司氏主催の忘年会。
 内田氏が養老氏に、どういう基準の人選か尋ねる。それに答えた一言が素敵だ。

 「野蛮人て、ことだろ」

 養老氏は何かの対談でもその言葉を使っていた気がするが、この忘年会の面々(これに池田清彦氏が加わるという)と照らし合わせると、実に納得がいく?

 内田氏は、その意味を「脳ではなくて、身体で考える人間」と解した。
 その考え方の重要さと、エピソードと、現状への辛辣な批評にあふれた対談集となっている。
 野蛮人を目指すなら?必須の本と言えるだろう。

 「武術的立場」から、社会や教育のことを語っている二人の強者。
 風呂の中でページをめくっていて、思わずクーゥッと声を出しそうになった件がある。

 子どもと同じ目線で、同じフロアで、同じ価値観を共有しあって共感し合いましょうというのは、はっきり言って教育の自殺行為です。

 教育が自殺するという比喩の痛烈さを、教育を仕事とする自分がどれほどの重さで受けとめればいいか、少しドギマギしてしまう。

 様々な受けとめ方があるだろう。しかし方法論として単純に見てはいけないことは確かだ。
 「子どもが主人公だ」も「教師が主役だ」も、実際の場でどんな教授と学習が成立していたか(いや、それを双方の学習という表現する教師もいる)こそ全てであり、個々の変容をどう受け止めたか…ここに、もしかしたら脳だけでなく身体もかかわりあってくるのかな、と考えさせられる。

 具体的な教え方として、野蛮人ならまずどうするか。

 一緒に遊ぶ、声を出してみる、いっぱいモノを集めて見せる、ほらほらと手を添える…うん、身体を動かしていると思う。
 もちろん、そんな単純なことでないことはわかる。

 しかし、まずは「入門」なのである。
 野蛮なことを見せる、誘うから始まるのではないか。

言い廻しの楽しさの危機

2011年12月13日 | 雑記帳
 必要があってめくっていた数ヶ月前の月刊誌で、お目当ての特集の次ページにあった「昭和のことば」という連載が目に入った。
 演出家の鴨下信一という方が書いている。

 第48回「ぎんぎんぎらぎら」

 題されたこの言葉は知っている。

 ♪ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む ぎんんぎんぎらぎら日が沈む♪

 なんとか口ずさむことのできる童謡だ。
 こういう言葉を重ねるのは「畳語」という。これは数年前に「鍛える国語」講座で知った。一応習ったことかもしれないが、身についていず、新鮮な印象でその言葉を受けとめた思いがある。

 同じようにそのページに、浅学ゆえに知らなかった言葉がある。

 対偶

 調べたら「対になっていること。たぐい。つれあい」といった意味である。文中にはこのように使われている。

 光と影のようなひとそろいの言葉をつかった[対偶的表現]

 著者が引いている歌謡曲の例がわかりやすい。

 ♪花も嵐も踏み越えて♪

 ♪悲しみこらえて ほほえむよりも♪

 ♪逃げた女房にゃ未練はないが、お乳ほしがるこの子が可愛い♪


 ずいぶんと古い曲だが、しっかり頭に残っている。
 常套的、画一的と言うなかれ。このわかりやすさ、親しみやすさが人生の普遍的な真実を表しているのではないか(言い過ぎですか)。

 と考えると、著者の指摘するように畳語や対偶的表現がなくなりつつある現状は、けして好ましいようには思えない。言葉を口にする楽しみ、快感的な部分が減っているということだから。
 賢治を出すまでもなく、言葉の根っこには音があり、声があるように思う。

 わずか1ページの論考だが、気づかなかった切り口で現状を見せてくれた。この文章のまとめはかなり重要なことを突きつけている。

 単語の存廃よりも[言い廻し]、表現の無くなり方が激しい。それも口で言って楽しい畳語のような表現が危なくなっている。実はメール、ツイッタ―は現代人の<音声能力>を失わせているのだ。

「ゆりかご」という比喩

2011年12月12日 | 読書
 先日,同人誌をいただいた。
 知人が執筆した小説の題名が「ゆりかごの唄」。
 直接ゆりかごが登場する場面もなく,何かの象徴なのだろうか,とあれこれ考えてみたがぼんやりしたままで見えてこない。
 小説は続編がある形なので,いずれどこかで発見できたらいいなあ
 と,そんなことを思っていて…

 北海道の石川晋さんが,以前紹介していた絵本(写真と文章)に興味が湧いて,注文していたものが,昨日届いた。
 (この写真が本の表紙になっています)
 http://www.ne.jp/asahi/photo/kodera/

 確か石川先生は,中学校の授業としてゲストにその著者の小寺卓矢さんという写真家を招いた活動もしていたはずだ。

 紹介された絵本の表紙が気に入って,「こんな写真を撮りたいんだよなあ」と単純に思ったので買ったのだった。どれどれと広げて見ていたら,連れ合いがそばから覗き込み,あるページのところで「これに似た写真撮ってたね」と,嬉しい一言を言ってくれた。

 さて,その『森のいのち』という絵本のなかに,次のような文があった。森の中の倒木に,キノコが生え,エゾマツが芽生えた写真に添えられた文の最後である。

 しんだきが
 あたらしい いのちの
 ゆりかごに なったのだ。

 ああ,いいと素直に思う。
 「いのちの ゆりかご」という表現が,たまらなく素敵だ。

 「ゆりかご」という比喩の力が最大限発揮されたように感じる。

 倒木は,けして揺らしたりはしないだろうけど,
 倒木は,囁きかけもしないだろうけど,
 ただ,そこに身体を横たえて,陽射しをうけ,雨を浴び
 そして風に運ばれるもの,土と一緒に流れるものを
 やさしく受けとめて,静かに見守るだけ…

 人もまた,いつか誰かのゆりかごになれるのだろうか。


 思わず,独白気分です。

納得の「言語活動の充実」

2011年12月11日 | 読書
 新潮社の『波』12月号に連載されている、中村うさぎと池谷裕二の対談が妙に面白かった。

 脳の発達と絡めて「『大器晩成』は正しい」の根拠?が示されたり、ネット検索と記憶力の関係から文字の発明の影響に話が及んだり、実に知的話題が満載である。

 「欲望の暴走列車」(私が勝手に抱いているイメージ)のような作家と気鋭の脳科学者という取り合わせはなかなかだし、「オトナのための脳科学」というタイトルの、「オトナ」というところが意味深だ。(当然、そういう?話題も多くある)

 もう3回目なのだが、ざっと読み過ごしたのか印象が薄くあまり印象にないので、改めて10,11月号を引っ張り出してみた。
 うーん、確かに12月ほどではないが、興味深い話題が随所に紹介されている。


 あらかじめ「人の身体はこうなっている」という固定観念をもたない状態で、脳は作られているのではないか

 という10月号の池谷の仮説は面白い。

 「身体感覚」と言われるが、熟練の職人や超一流の運動選手などにみる動きは、道具と身体が一体化しているように思えるときがあり、それはきっと脳との結びつきでも解明されるはずで、能力開発の大きなヒントと言えるのではないか。


 男は非言語コミュニケーションが苦手だから、ルールを言語しないと落ち着かない。

 という11月号の中村の指摘は鋭い。

 こう考えると、きまりを守るという指導法にも男女による違いがあってしかるべきだ。
 個別的な場面では無意識的に使い分けでいるのかもしれないが、それを何かしらの原則で書き分けている文章など見たことがない。探せばあるのだろうか。


 もとの12月号にもどってみて、改めてざっと眺めてみて、またアレアレッと思った。
 イヌやネコに自己や自我という概念がない話から、人間が自分の存在を確かめる、向上させていくための方法として、「言語化」という話題に移る件がある。

 中村がアイディアを書きとめることも、池谷が研究のために三人でディスカッションすることも、そういえば金曜日に聴いた阿部昇秋田大教授の講演に通じている。

 つまり、あれです。
 「言語活動の充実」…それは何のためか、ってことです。

「応援歌」が示している生き方

2011年12月10日 | 読書
 入手困難でアマゾン古書では2万を越す価格になっている本を、知り合いより貸していただいた。

 『校長の応援歌 ~現代っ子とともに』(青木剛順 ツルヤ)

 かなり以前に野口芳宏先生の講座で紹介があったように思うが、そのまま失念していたままだった。

 第一部「中学校よ、甦れ」は、冒頭から引き込まれる様に読み耽った。

 著者の勤務の時系列からすれば逆になるのだが、なぜそこから書き出さなければならなかったかは、読み終えてみれば必然的なように思えてくる。
 クライマックスのような出来事から語る手法もあるのだろうと思う。しかしそれは緻密な計算された構成という以上に、常に全力で仕事に挑む者が、最初から強い球を投げ込んでくる姿に似て、読み手を圧倒する。

 生徒を、職員を、まさに感化していくリーダーの言葉は、実に熱く味わい深い。借りている本なので、ページの端を折ることができず、その度にメモしておくこととした。
 結果二つ三つではなかったので、ここでは引用せずいずれ別の形で残しておきたい。

 読み進めているうちに思い浮かんだ一字は「劇」。

 劇的な展開のあるドラマであるし、それは主人公である校長の劇薬にも似た強い言動によって成し遂げられていく。
 「劇」の字源には、虎と猪が争い力を出す様子があるのだが、まさにそういう激しさがあふれている。
 職員が生徒を制止するために体罰をふるったとき、その職員に向かって「俺の子供をなぜ殴った。許さないぞ」と口にできる覚悟はどれほどのものだろうか。

 あとがきに経緯が記されている、当初第二部に予定されながら割愛された青木先生の自己形成史を読んでみたいと思うのは、私だけではないだろう。

 『校長の応援歌』という題名は、実際に壇上から自作の応援歌を歌うエピソードからつけられたのだろうが、間違いなく、その姿がこの本を象徴している。

 そして「応援歌」が著者の生き方を示していることにも気づかされる。

「幸福の方程式」を知る

2011年12月07日 | 雑記帳
 先月の末だったと思うが、BSでブータンのことを取り上げた番組があったので、今話題の国の基礎知識(笑)として視てみた。

 調べたら、これでした。↓
 http://www.bs-tbs.co.jp/app/program_details/index/KDT0802400

 「国民総幸福量」という言葉については以前から目にしていたが、具体的な施策が挙げられていることは知らなかったので、なるほどねえという感じで見入った。

 持続可能な社会経済開発
 自然環境の保護
 伝統文化の振興
 優れた統治


 この四点目が他を包括するという見方もできるが、結局は民衆の意識との双方向の中で築かれていくわけであり、そのあたりのバランスは難しい。
 ネット解禁による情報の流れ込みをどうこの国は受けとめるか、これからが注目だ。

 さて、今日の朝刊一面紙上に「時評」として、本県出身の佐藤隆三氏(ニューヨーク大名誉教授)の文章が寄せられた。確か毎月か隔月で載っているものだ。
 そのタイトルは「幸福は測定できるか」。

 この命題は、自我が芽生える頃の年齢より上の者にとって、一度は頭をよぎることではないだろうか、と思う。
 筆者が言うところの「悟り(百パーセントの幸福感)に到達」した人以外は、これからだって大きな問いと言えるかもしれない。

 日本政府は幸福を測る指標の試案をまとめたそうだが、例えば仮にその通りに何か統計的なことが実施され、「貴方の住む地域は、幸福度第1位です!」と叫ばれたとしても、大方は「ええーっホント?」「それが何なの?」と言うに決まっているのではないか。

 もちろん、統治者にとっては嬉しいことに違いない。
 まあ、それからそういったデータに引き寄せられるように喜んだりできる人もきっといることだろう。

 だが、逆にその結果が悪ければ、それらの人は悔しがり、残念な気持ちになるとも言える。

 そうすれば、感覚的にはそうした外部の情報に左右されずに、不動の心を持つことが肝要なのではないか。それを幸福な姿と言うべきではないか、そんな気がする。

 いや、そもそもそんな情報には目もくれずに、今ここにあることを喜び、他の人のためになるように尽くすこと…凡人にはほど遠い境地だが、半歩でも近づきたいのは正直な気持ちだ。

 佐藤氏がその紙面で、師(サミュエルソン教授)の言葉として紹介している「幸福の方程式」。
 いつも身につけて歩きたい、実に明快な定義である。

 幸福は、所得と富に比例して増大するが、欲望に反比例して減少する。

謝罪に二日目のカステラ

2011年12月06日 | 雑記帳
 雑誌通を自認していたが、最近どうも範囲が狭まってきたように感じている。
 そう言いながら、書店の雑誌棚から抜き取ったのが『BRUTUS』

 今月号の特集は、「日本一の『手みやげ』は、どれだ!?」である。
 何の必要があってこんなものを買うのか、自分でも定かではないが、お菓子などが並び、題字を赤で統一したデザインに惹かれついつい買ってしまった。

 メイン記事は「手みやげグランプリ」ということだが、予想通りというかやはり都会人のための様相を呈しており、馴染みのない、しかしそれでいて美味しそうなものがずらりであった。

 面白いと思ったのが「手みやげ7つのシチュエーション」
 シチュエーション別にどんな手みやげがいいか語る座談会である。
 このシチュエーションという区分に、今さらながら納得してしまう。つまり、手みやげが必要な場合や手みやげが有効な場合は、以下の七通りということである。

 挨拶 祝福 感謝 見舞 差入 交渉 謝罪

 こんなふうに、二字熟語で続けて断言されると、もうこれ以上は思いつかない。
 考えてみると、これらは「ちょっと難しいコミュニケーション」「自分の気持ちを一歩強く出したいコミュニケーション」とでも呼んでいい設定だろうか。

 さて、これらがマトリックスになっているのも興味深い。
 横軸にPRIVATEとPUBLIC、縦軸はSERIOUSとHAPPYがある。
 今回、手みやげのジャンルは16と限定されていて、どんな種類の食物が当てはまるのか配置されている。
 経営者、プロデューサー、礼法プロの三人が選んだその結果は…。

 HAPPYでPRIVATEの高ランクは、ばらちらしやから揚げ、メンチカツなど。
 同じPRIVATEでもSERIOUSだと、スープやショコラなどが高い。なるほどと感じる。
 さて、極めつけは、PUBLICでSERIOUSな場面。つまり「謝罪」ということである。

 これは三人が三人とも選んだのが「カステラ」。
 選者の一人はこう語る。

 華美すぎず、でもちゃんと気を遣っているのが相手に伝わるのがいい。

 まあ、手みやげを持って謝られた経験などあまりないわけで、実感を伴うわけではないが、イメージは伝わる。

 謝罪は本当に難しい。手みやげの効力など全く期待できない場合もあるだろうし、相手の心情を逆なでする危険性もないわけではない。落ち着くタイミング、きっかけで食するのは、甘く柔らかでシンプルな食べ物が似合うのかな、と思ったりする。

 カステラは作りたてよりも二日目が美味であるのは知られていることだ。
 直接、今でなくとも、翌日に笑顔が見られるようにという気持ちを込めて持参するのであれば、これほど相応しいものはない。

 かなり強引な結びとなりました。

現場から伝える人の力

2011年12月05日 | 読書
 先月末に花巻へ出かけたとき、ホテルのフロントに並べられていた一冊。

 『被災地の本当の話をしよう』(戸羽太 ワニブックスPLUS新書)

 週末に行きつけの書店のコーナーで見つけた一冊。

 『官僚の責任』(古賀茂明 PHP新書)

 どちらの新書もこの夏に発刊され、版を重ねている。
 話題になっている人物の著書であることが共通点と言えるし、書いている内容は全く違うが、現在の日本を考えるうえで貴重な「証言」という見方ができると思う。

 人口およそ二万五千の陸前高田市。今回の震災によって二千人を超す死者・行方不明者を出している。就任一カ月足らずの戸羽市長の奮闘ぶりについてはマスコミで取り上げられたので、印象は残っていたが、もうちょっと詳しくと思い、ささやかな支援の意味も込めて手にとってみた。
 事実と思いをストレートに語る戸羽市長の文章は、内容の深刻さもさることながら、この国の、非常時における動きの鈍さ、凝り固まった思考を具体的に指摘しており、考えさせられることが多い。

 「被災者支援、復興を迅速に」という声はずっと連呼され、思うように進まない現実の状況、問題点の解明など、よくマスコミ等で流されるが、ではどうするかという問いの前でなかなか進まない。
 その訳は、端的に言えば足を引っ張っているあちら側の人間が確かにいるということだ。それもおそらくそんな意識は全く自覚していないだろうし、もしかしたら自分だってあちら側に足を踏み入れているのかもしれない。

 ほんの数行しか書かれていないが、被災地に足を踏み入れたある国会議員の信じられない行動は、よく取り上げられる失言報道などとは比べものにならない。
 現場に居る人の伝える力の重さを感じる著だ。


 古賀氏もある面では、現場に居る人だ。
 彼の進めようとしていることが、正しいかどうか安易に判断できるほどの知識や展望は持ち合わせていない。しかし、えぐり出してみせた官僚の実態はあざやかに迫ってくるものがある。
 例えば次のような文章だ。

 たとえば何か国民を巻き込む事故が起こったりしたとき、「今後それを防ぐためにこうします」と政策が発表されると、一般の人は「国が支援してくれるのか。厳しく取り締まってくれるんだな」と思うだろうが、官僚の感覚ではこうなる。「ああ、またナントカ協会をつくって、金をバラまくのだな…」

 その思考回路が導きだしていることが、ひょっとしたら行政につながる教育現場の中にも浸透しているような気がして、納得しながら苦々しい思いをもつのは私だけだろうか。
 問題を自分に求める根本的な視点の向きが違うことを、案外人は気づかない、そしてその向きに慣れ、それ以外の道など目に入らなくなっていく。自戒したい。


 政治や官僚の世界を一括りすることはできないかもしれないが、政権交代に伴って変わったこと、変わらなかったことを改めて思い起こしてみると、強固に張りめぐらされている網の目のような印象がある。
 一つを変えようとしたときの逆風は、我々には想像つかないほど烈しいようだ。
 ただ勇敢?にもその場に立っている人たちの姿を認めることができるし、きちんと耳を傾ければ聴くこともできる。

 現場から伝える人の力を感じとろうと思う。

支点なき世界へ

2011年12月03日 | 読書
 先週読了した『奇跡のリンゴ』は読み応えがあり最高級の評価をしたが、この一冊も強烈だった。

 『身体から革命を起こす』(甲野善紀・田中聡  新潮文庫)

 武術家、身体技法の実践家として著名な甲野の実践を、彼の言葉を中心にしながらライターの田中がまとめ、甲野に教えを受けた、感化された著名人の声と合わせながら構成されている。
 甲野の主張、実践は、異端として受けとめられることが多いが、実は理にかない、人間という身体の本質に照らし合わされて導きだされていることが、数々のエピソード~武術、スポーツ、音楽、介護などによって語られる。
 そして「常識」や「正しいこと」の抵抗は思った以上に強いものだと知る。

 それらをうまく配置しながら論を進めている田中の表現は、私という読み手に結構キツイことを突きつける。

 どんな世界でも、教師が「正しいこと」として教えるのは、すべて過去の習慣や制度のなかでの「正しいこと」に過ぎない。

 様々な世界で常識となっていることが、歴史的経緯の中で実は間違っていたと結論づけられたことは少なくない。そういった事例は毎日出されているといってもいいだろう。
 しかし、と思う。
 教師が今「正しいこと」と認められていることを現実に教えるのは仕方ないではないか、仕事を100%納得できているわけではないが、それは生活の糧であり、同時に生きる支えになっているのではないか。
 と、言い訳モードで読み進めていくと、またその足元を払いのけるような考え方と巡りあってしまう。

 支点とは、自分にとっての拠りどころでもある。(中略)したがって、動かない支点が、自己の実感につながることになる。

 そうやって、「筋肉をぐっと緊張させ」「ふんばる」「力む」が、今の自分を作ってきたのではないか。その中で「概念化を強固にするにすぎない自己確立」を図ってきたのではなかったか…急にそんな不安めいた気持ちが渦巻く。

 流れるものと、ふんばるものと。
 生きているものと、構造と。
 どちらを求めるか。


 田中のこの問いかけは、重いと感じる。
 そして、その意味を根本から理解できるか、といった時に、それを理解できる身体になっているわけがないことに愕然とするのである。

 支点なく流動する静謐な動き方が重要になる。支点を蹴る緊張感に自己を確認して安心するような意識に支配され、概念にすぎない構造をなぞるように動いている身体では、世界の現象は客観的な出来事としてあるだけである。

 私の身体は今ここに確かにあるが、それは「生きている身体」ではない。
 「実感」ということさえ分析的に見ている自分が、途方もない世界に入り込むには、いったい何が必要なのか。
 エコーのように誰かの声がするばかりである。

心情を見失ってはいけない

2011年12月02日 | 読書
 知り合いの先生から、質問メールが届いた。

 曰く
 「気持ち」と「心情」はどう違うのか。

 学習指導要領の「文学的文章」に関わる文面が校内で話題になったらしい。

 第3・4学年 ウ 場面の移り変わりに注意しながら、登場人物の性格や気持ちの変化、情景などについて、叙述を基に想像して読むこと。
 第5・6学年 エ 登場人物の相互関係や心情、場面についての描写をとらえ、優れた叙述について自分の考えをまとめること。


 自分にそういう視点はなくあまりこだわっていなかったが、言われれば変な気もする。交換可能のようにも思うし、いややはり若干の違いはあるだろうといくつか思い浮かんだこともある。

 辞書、検索、そして指導要領解説の文章などを見ながら、自分なりの考えを書いて返信した。

 その過程で、本当に久しぶりに取り出した書籍がある。もしかしたら5年くらい見ていないかもしれない。

 『国語教育研究大辞典』(国語教育研究所編 明治図書)

 1988年の刊である。その割に汚れていない。いかに丁寧に扱ったか…いやいや、手垢がつくほど活用していないか、ということか。

 さて、課せられた二つの言葉である。
 「気持ち」は見当たらない。やはり生活語、ごく一般的な語彙でもあるのでということだろうか。
 「心情」と見ると…ある、ある。さっそく開いてみる。
 項目立てがなかなかしゃれている。

 「定義への探索」「特性、その周辺」「指導上の問題点」

 執筆したのは…おお、橋浦兵一先生ではありませんか。
 大学1年のときに何かの講義を受けたことは記憶している。劣等生だったし、たぶんCだったろう、などと余計なことまで思い出す。

 解説の文章はなかなか難解な部分もある。しかし、繰り返し読むと実に興味深いことが書かれている。
 漱石の『虞美人草』を引用して、こんなふうにまとめる。

 「心情」とは、言葉を越えた心底の情感であり、まさに「推察」するほかはない思念である。

 そして、いくつかの辞典、字典の文章を紹介し、「理解しがたい説明」と書きながら、このような「推察」をする。

 あらゆる心の状態を発現させる情感の働きを肯定しているように見える

 「心情」は「秩序」と大きく関わる用語として展開していく。
 作中人物の造型を例に、造型が人物の状態や行動に秩序を与えると同時に、自己批評と再生を可能にするためには、「心情」との交流が必要だという。

 言葉の「表現秩序」という面において「心情」との交流は、文学的文章に限らず説明的文章にも当てはまることだという。
 時間や論理の秩序の根底にも心情があるという論は、自分の中で消化しきれない気がするが、次の言葉は感覚として呑み込むことができる。

 すぐれた文章はすべて感動を伴い、新鮮な心情の流れが寄り添っている。

 課題に近づいた一つの結論。

 心情は流れているものである。

 習慣的生活の中で見失ってはいけない。