すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

言い廻しの楽しさの危機

2011年12月13日 | 雑記帳
 必要があってめくっていた数ヶ月前の月刊誌で、お目当ての特集の次ページにあった「昭和のことば」という連載が目に入った。
 演出家の鴨下信一という方が書いている。

 第48回「ぎんぎんぎらぎら」

 題されたこの言葉は知っている。

 ♪ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む ぎんんぎんぎらぎら日が沈む♪

 なんとか口ずさむことのできる童謡だ。
 こういう言葉を重ねるのは「畳語」という。これは数年前に「鍛える国語」講座で知った。一応習ったことかもしれないが、身についていず、新鮮な印象でその言葉を受けとめた思いがある。

 同じようにそのページに、浅学ゆえに知らなかった言葉がある。

 対偶

 調べたら「対になっていること。たぐい。つれあい」といった意味である。文中にはこのように使われている。

 光と影のようなひとそろいの言葉をつかった[対偶的表現]

 著者が引いている歌謡曲の例がわかりやすい。

 ♪花も嵐も踏み越えて♪

 ♪悲しみこらえて ほほえむよりも♪

 ♪逃げた女房にゃ未練はないが、お乳ほしがるこの子が可愛い♪


 ずいぶんと古い曲だが、しっかり頭に残っている。
 常套的、画一的と言うなかれ。このわかりやすさ、親しみやすさが人生の普遍的な真実を表しているのではないか(言い過ぎですか)。

 と考えると、著者の指摘するように畳語や対偶的表現がなくなりつつある現状は、けして好ましいようには思えない。言葉を口にする楽しみ、快感的な部分が減っているということだから。
 賢治を出すまでもなく、言葉の根っこには音があり、声があるように思う。

 わずか1ページの論考だが、気づかなかった切り口で現状を見せてくれた。この文章のまとめはかなり重要なことを突きつけている。

 単語の存廃よりも[言い廻し]、表現の無くなり方が激しい。それも口で言って楽しい畳語のような表現が危なくなっている。実はメール、ツイッタ―は現代人の<音声能力>を失わせているのだ。