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納得の「言語活動の充実」

2011年12月11日 | 読書
 新潮社の『波』12月号に連載されている、中村うさぎと池谷裕二の対談が妙に面白かった。

 脳の発達と絡めて「『大器晩成』は正しい」の根拠?が示されたり、ネット検索と記憶力の関係から文字の発明の影響に話が及んだり、実に知的話題が満載である。

 「欲望の暴走列車」(私が勝手に抱いているイメージ)のような作家と気鋭の脳科学者という取り合わせはなかなかだし、「オトナのための脳科学」というタイトルの、「オトナ」というところが意味深だ。(当然、そういう?話題も多くある)

 もう3回目なのだが、ざっと読み過ごしたのか印象が薄くあまり印象にないので、改めて10,11月号を引っ張り出してみた。
 うーん、確かに12月ほどではないが、興味深い話題が随所に紹介されている。


 あらかじめ「人の身体はこうなっている」という固定観念をもたない状態で、脳は作られているのではないか

 という10月号の池谷の仮説は面白い。

 「身体感覚」と言われるが、熟練の職人や超一流の運動選手などにみる動きは、道具と身体が一体化しているように思えるときがあり、それはきっと脳との結びつきでも解明されるはずで、能力開発の大きなヒントと言えるのではないか。


 男は非言語コミュニケーションが苦手だから、ルールを言語しないと落ち着かない。

 という11月号の中村の指摘は鋭い。

 こう考えると、きまりを守るという指導法にも男女による違いがあってしかるべきだ。
 個別的な場面では無意識的に使い分けでいるのかもしれないが、それを何かしらの原則で書き分けている文章など見たことがない。探せばあるのだろうか。


 もとの12月号にもどってみて、改めてざっと眺めてみて、またアレアレッと思った。
 イヌやネコに自己や自我という概念がない話から、人間が自分の存在を確かめる、向上させていくための方法として、「言語化」という話題に移る件がある。

 中村がアイディアを書きとめることも、池谷が研究のために三人でディスカッションすることも、そういえば金曜日に聴いた阿部昇秋田大教授の講演に通じている。

 つまり、あれです。
 「言語活動の充実」…それは何のためか、ってことです。