すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「標」は少し高いところへ

2008年01月17日 | 教育ノート
 「標」という字は使われる頻度が高いが、この字で個人的にすぐ思い浮かべるのは「雪標」である。
 現代ではいかに北国であっても死語と言えようが、喩えであればこの先行き不透明な時代には十分に光ってほしい言葉である。
 若い時分に学級通信をそのタイトルにしたことがあったが、今思えばちょっと背伸びした使い方だった。


--------------


 木へんに「票」と書きますが、票はもともと「こまかい火の粉がひらひら目立ってとびあがる様子」から出来そうです。目立つことから「目じるし」「ふだ」の意味に転じたといいます。
 したがって「標」は、高い所にあるこずえ、また高くかかげた木の目じるしを表す言葉です。

 始業式で子供たちに「三学期は『ホップ・ステップ・ジャンプ』のジャンプの時期だ」ということを話しました。今まで身につけた力を生かしながら、勢いを失わないように、大きく飛躍してほしいものです。
 そのための「目標」は、少し高いところにあった方がきっといいでしょう。
 しっかり「標」を見て思い切って踏み切っていく…短い日数ですが励ましてやって下さい。
(1/17)
--------------

「何もないけど何でもある」力

2008年01月15日 | 雑記帳
 立川志の輔の落語を聴く機会があった。
 たった一人で一ヶ月のロングラン落語会を満席にできる実力者であり人気者である。
 今年、自身の新作落語がなんと映画化されるということで、さらに注目を浴びている。その映画の封切が2月にあり、その前の一ヶ月間、連日その新作と他の演目を行う形で三時間の高座を務めている。

 テレビでのトークは始終目(耳)にしているが、初めて聴く生に「ああ、みせる落語だなあ」と思った。この「みせる」とは「見せる」であり「魅せる」である。
 時事ネタを取り入れるマクラ、表情豊かな顔、そして言いよどんだり、つっかえたりして心理や人物像を描く巧みさ…見事に「落語」の世界へ観客を引きずりこむ。
 一人で何役も演じる構成は、それを理解させるだけでも難しいだろうに、よほど巧みに計算され、客観視されてできるのだろうと、改めて得心する。

 『何もないけど何でもある』
 
 落語を撮り続ける写真家橘蓮二が「落語の魅力を一言で表すとしたら、これ以上ない言葉だ」と紹介している、志の輔の言葉である

 「みせる」ために様々な道具を準備することも必要であるが、何もない場で語るだけの力を身につけることも不可欠であると思う。
 後者の方がより奥深く、適用場面が広いはず…つまりは音声言語技術の極みだな…などと自らの仕事のことを考えざるを得ない。

「ガマンの価値」の見直し

2008年01月14日 | 読書
 悲惨な事件があれば必ずといっていいほど犯人の心理判定のようなことが取り沙汰される。特に青少年の犯罪である場合にはそれが当たり前になっている。むろん、大切なことである。その衝動性は何が原因だったのか詳らかにされるのだから…。
 しかし、アバウトな見方であるのかもしれないが、結局自分の感情を抑えられなかっただけ、と結論づけることも間違いではない気もする。個々の事例は特殊に見えても、これだけ頻繁に世間を騒がすような事件が起こっていることは、もう特殊とは言えないだろう。

 われわれはこの、ものが豊かで便利な世の中で、子どもたちにガマンする訓練を怠りすぎ、何でも自分の思いどおりになると思い込んだまま大人になり、抑制力のない成人をつくることになったのではないだろうか。
河合隼雄『ココロの止まり木』(朝日文庫)

 社会全体が「ガマンの価値」を軽くみるようになってきたことは確かであり、それは文明の発達の一つの証しでもあるのだろう。だから、私たちが快適を手に入れたことと背中合わせに、抑制のきかない心が大きくなり、衝動をコントロールする力は弱まっているのだということを、もっともっとアピールする必要がある。
 そのうえで「ガマンの価値」を見直し、意識的にレベルアップさせる手立てが具体的に語られるべきだろう。
 もう野放しにはできない時期にきている。

 「ではどうするか」と即効的な方法を示せるわけではないが、少なくても目の前に「ガマン」している子がいた時にその価値を認めること。そしてその価値が少しでも高まり、広まるという方向で動き出すことはできるはずだと思う。

「まず、させる」からスタート

2008年01月11日 | 教育ノート
 いよいよ来週から三学期のスタート。学期初めのネタの参考にと書いていたら、いつの間にか「まず、させる」というオチになってしまった。しかし「まず、させる」「まず、する」は大切なことだ。
------------
 縷述「つながる授業」30

 祝日絡みで三連休が続くと、学習に向かう子どもたちの状態はぐっと落ちます。これは先生方も感じていることではないでしょうか。「休み前の70%以下になる」と言っている人もいるようです。まして長期休業明けであれば、どれほどなのか…。
 もちろん休み中の過ごし方については指導しているわけですが、実態はまちまちであり正直多くを期待できない場合もあるようです。その点を嘆いても?仕方がありませんし、私たちの仕事はいかに子どもたちを「学校モード」「学習モード」に切り替えてやるか、ということだと割り切っていきたいものです。短い三学期、できるだけ早くエンジン全開といきたいものです。

 そのためにどんな活動をし、どんな方法を使うのか、先生方にも得意や作戦があることでしょう。確認のためにモデルになりそうないくつかの例を紹介してみます。よかったら参考にしてください。

□運動系~ゲームなどから入る →集団での遊び、外遊びなどしていない子も多いでしょう。
□音読、歌系~一斉読み、合唱などで声を出す →声を揃えることから遠ざかっています
□クイズ系~テンポを速めて行う →単純な○×や三択で数をこなすことで集中していきます
□お話、読み聞かせ系~ストーリーのあるものを →聞かせる形態にも気を配って
□室内ゲーム系~エンカウンターなどのゲーム →友達との雰囲気作りを重視したいとき

  やはり楽しく活動できることが原則のような気がします。ただここで留意すべきは「必ず教師の評価を入れていく」 といことではないでしょうか。それは少し大げさに言えば、ここが学校である、教室である、という認識を明確にさせるということです。集団生活の場の基本とも言えます。
 休み明けは、特に細かな評価が必要と思います。認められ、誉められ、叱咤されながら「学ぶ姿勢」を作り上げていくこととでしょう。これは学習だけでなく係りの活動や清掃なども全く同じで、スタートの時点はしっかり見届けたいものです。

 脳科学の面からも言われていることですが、「やる気にさせる」ためには「まず、させる」 ことのようです。
 やり始めれば「側座核」が働き出し、行動を促していきます。
(1/11)
------------

「悪人」との出合い

2008年01月09日 | 読書
 小説に嵌まるのは年に一度か二度ほどだろうか。

 書評関係の特集で高い評価を得ていた『悪人』(吉田修一著 朝日新聞社)を、昨年末に注文した。
 正月休みのとある午後、その420ページの単行本を3時間ほどで一気に読みきる。ぐいぐいと惹きつけられた。こんな感覚は久しぶりだった。

 2006年春から2007年にかけての、朝日新聞の連載小説だという。
 それにしても「悪人」というシンプルな題名は、直球そのものであり、剛速球のようにずしんと響く。殺人事件をめぐる内容であるが、だからといってもちろん「悪人=犯人」と短絡的に語られる小説などないだろう。
 ここでは、事件をめぐる様々な人物と背景が淡々と描かれ、各人物による独白のスタイルも交えられて、事件の発端から犯人逮捕までが、実にありがちな情景とともに提示されている。

 犯人、被害者、友人、知人、父母、親類、等々その誰にも大小を問わない悪があり、その積み重ねやすれ違いが大きな悲劇となる…そんなふうにまとめることもできよう。
 そして、例えば「個に潜む悪人性」がテーマなのだといった括り方もあるかもしれない。

 しかし私にとって印象深いのは、犯人と付き合いのあった女性が覚えていた、犯人の言葉である。

 「…でもさ、どっちも被害者にはなれんたい」

 自分を捨てた母親と会った彼が、母親の嘆きや詫び言を聞いて、突如金をせびり出し始める理由めいた言葉だ。

 彼の「悪人」はそうやって目覚めたのかもしれない。それは見方によって、母親に対する救いの言動といえないこともない。母親が救われたかどうかは別として、彼が引き金を引かざるをえなかったのだ。

 人が誰しも持つだろう自らの物語の中に、悪人は存在しなければならない…そんなふうに思える。

 小説にあるような不幸な状況は必ずしも特殊とは言えない。貧困も離散も、出会い系も地方の疲弊も、どれも簡単に例を挙げられる。
 自分でさえ多かれ少なかれどこかで悪人を見出そうとしていることも否定できない。

 個々の物語の中へ悪人を呼び寄せようとする、または必要とする人間の「業」のようなものとはいったいなんだろう。
 
 しばらく眠りつけなかった。

「普通」の変質

2008年01月07日 | 読書
 本の帯にかの養老孟司氏が寄せている言葉は、大げさとは言えない。

 「誰も口にできなかったことを、表面化させている。その現実は、ホラーよりもホラーである」 

 『普通の家族がいちばん怖い~徹底調査!破滅する日本の食卓』(岩村暢子・新潮社 )は、読み進むにつれて、気分が悪くなっていく本である。少なくても私と同年代以上であればそう感じるのではないか。

 正月とクリスマスの食卓風景が、主婦を対象とした「写真・日記調査」と「グループインタビュー調査」によって明らかにされている。そこに出てくる声に、「うすうすそうは思っていたが」「自分にも少し思いあたる点が」というどす黒い様な現実がえぐり出されると言っていいだろう。
 これは「食卓」の現実から見える、紛れもない家族の、日本人の現実であることに違いない。

 首都圏の調査ではあるが、確実に地方にも広がっている現実である。目の前の事象を、ここに書かれた言葉で照らし合わせてみるとき、その思いは確信となる。例えば、次のようなことだ。

 (「子供の喜びは、親の喜び」とは)昔は、親が子供の喜びや満足を我が喜びと感じることを言ったのだろうが、今は目の前で喜ぶ子供の姿そのものを見て、親が楽しんだり喜んだりしている

 かつてなら子供のわがまま、勝手、贅沢と言ったようなことでも、「お子様」の「アドバイス」「リクエスト」「意見」「発案」「希望」「アピール」などと言って、まるで対等な大人の正当な要求であるかのように受け止め、聞き入れようとしている

 子供の変化を「一人前の意見を持つようになった」とか「一人で行動するようになった」と「子供主体」の視点から語る主婦は、ほとんど見られなかった


 「普通」の変質を、もっとみんなが語りあわなくてはいけない。

習慣とは運動なり

2008年01月05日 | 教育ノート
 習慣には、広辞苑の第二義として「後天的に習得し、比較的固定して、少ない努力で反復できる行動様式」がある。そして狭義には「『運動』に関係したもの」という記述もある。「知識」に関係したものを記憶と呼ぶことと対照的に取り上げられているのだ。
 教育に携わる人間にとっては、実に興味深い区分だと思う。
 年末に書いたものを読み返して、改めてそんなことを思った。

-----------
 学習発表会の時にちょっとだけお話したのですが、2007年秋は秋田県にとって画期的とも言える季節でした。「日本一」が三つ出たことです。
 一つは「国体優勝」であり、もう一つは全国学力検査小学校6年の部で、国語・算数共に平均点が全国一という結果が公表されたことです。そして、稲の作況指数が全国で最も良かったことが発表されたのも10月でした。
 課題はまだあるとはいえ、秋田の持つ「豊かさ」がそこに表されたといっても過言ではないでしょう。

 学力の件に関しては、他県からの問い合わせが相次いでいるという話を聞きました。ある研修会で講師となった校長先生は、他県の方から全国一の理由を尋ねられたとき、こんなふうに答えたと笑って紹介してくれました。
「秋田には、なまはげがいて、『泣子はいねぇがあ、勉強さにゃ子はいねぇがあ』と夜に回ってくるからだよ」
…こうしたシンプルなたとえ話も実は一面をついていると思います。
 結局は人の話をきちんと聞いたり、決まった時間勉強を続けたりする習慣がついているかどうか、ということに尽きるのです。

 「教育とは、よい習慣をつけてやることに他ならない」…古くから言われてきた言葉です。確かに時代によって習慣もまた変化しますが、それを作りだすのは人間でしかありません。
 よりよい未来へ向かうために必要な習慣は何なのか、互いに考えあいながら、今年もまた学校・家庭そして地域それぞれの場で、子どもたちの健やかな成長のために努力していきたいものです。本年も学校に対する変わらぬご支援を何卒よろしくお願いいたします。
(1/1)
----------

見た目

2008年01月03日 | 読書
 どの時代でも「人間は中身で判断すべき」「中身を見ろ」という主張は繰り返されてきた。その批判はいつの時代でも正しい。が、いつの時代でも、現実的効力は持たない。
 それよりも、社会が「見た目印象主義」であることを認識した上で、その社会では、どんなことがおき、どんな行動や努力が効率的に機能するのか。その対応を考える方が有益である、と私は考えている。
岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』(新潮新書)

 ある雑誌の書評コーナーで、このベストセラーを2007年のベスト1に挙げたのは佐藤可士和であった。
 アート界を席捲する超一流デザイナーが、単なるダイエット本を推すわけではないことが、この一言に表わされている。
 「見た目」へのこだわりは、実は本質に迫ることによって実現される。様々な場、様々な設定に置き換えてみても、それはかなり納得できる。
 要は分析し、関連づけ、表現していくことだろう。

跳躍

2008年01月01日 | 読書
 人類は前進するという習性に恐らく逆らえない。たとえそれが完全なるゼロに続く道であろうとも。
 我々は止まるのではなく、新しい価値観を生み出す為に、むしろスピードを上げて思い切った跳躍をするべきなのだ。

太田 光『パラレルな世紀への跳躍』(集英社文庫)

 問題はスピードである。
 スピードを上げていくためには何が必要か、何が不要かその見極めをしっかりしないといけない。
 立ち止まらずにその作業を進めていくこと。
 踏み切るタイミングの見定めを誤らないこと。
 そして、留意することばかり増やしてためらい続けないこと。