すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「子どもから学ぶ」ためには下地がいるのだ

2006年12月12日 | 雑記帳
 「子どもから学ぶ」とか「子どもの側に立つ」といった美しい言葉は苦手である。

 子どもから学ぶのが教師なら給料は誰のものだ!
 大人が子どもに逆戻りするわけがないじゃないか!
と理屈をこねてみたくなったりする。

 ただ「心がけ」としてならわかるし、次のような文章の意味もなんとなく理解できる。

  教師が子どもから教えられるということを体験・実感しない限り
 ほんとうの意味で、子どもから学ぶという精神が理解できないのではないかと思います。



『集中が生まれる授業』でそう書いた今泉氏は、ベネッセの冊子には次のことを書いている。

 私自身、「子どもから学ぶ」ということがよくわかりませんでした。
 実際には目の前の子どもの姿をもとに授業を創る重要さがわかり始めたころから、授業が変わってきたように思います。


「目の前の子どもの姿をもとに授業を創る」
…これなら、すっきりわかる。
 指導プランは確かにあっても、教材と子どもたちの出会いによって紡ぎ出された言葉や表情などを見取りながら、学びが創造されていく場。

 そうした授業をつくっていくために必要な条件については
繰り返し書いている気がする。
 なかなか身につかない自分を意識するからこそ、繰り返しているのだろう。

 今泉氏はこう書いている。

 子どもの思考・発言に対して臨機応変に対応するためにも、対象そのものを深く認識することは不可欠です。


 野口先生が強調する「素材研究」の大切さと大きく重なる。

 授業スタイルや教科の違いを越えて、不変なことなのである。

『三丁目の夕日』が描く学校

2006年12月11日 | 雑記帳
 時代遅れといおうか、一般視聴者なみといおうか
あの『ALWAYS 三丁目の夕日』をテレビで視た。

 いろいろな目のつけ所があっておもしろかったが
職業上、関心がむくのは「学校」の描かれ方。

 この映画で、学校がでてくるシーンは一つ。

 鈴木家の息子一平が夏休みのある日、昼寝?をしていて
家族が「登校日」であることを思い出す。
急いで、学校へ駆けつけるが
教室に教師は居ずに、みんなみんな思い思い過ごしている。
あまりうるさかったのか、入ってきた女教師が
机に向かって書きものをしている淳之介を指差し
「淳之介くんを見習いなさい」
と叱って去ってしまう場面である。

 一平が学校へ向かうシーンに出た
当時流行っただろう?洋風建築の校舎。
 板張りの粗末な教室、二人がけのごつごつした机等々
住む場所は違えども、結構共通している点がある。
 それよりも何も、黒板に大きく書かれた「自習」の二文字である。

 結局、『三丁目の夕日』では、学校はこう描かれている。

夏休みにわざわざ登校日を設定したが、
課題も与えず「自習」とし
何をやっていてもかまわないが、
静かに座学をしてうるさくしないことがりっぱである
という学校
(しかし、子どもたちはそんなことお構いなしだ)

 見事に権威が働き、しかもやり過ごされている時代
とでも言えばいいのだろうか。

 当時、夏休みであれば学校に教師が揃う日など少なかったろうし
きっとその時間帯は「打ち合わせ」でもしてたんだろうか。
 それにしても「子どもたちが集う場」としての躍動感はあった。
ただ、同じことを平成の格好で描けば、
まちがいなく「学級崩壊」の教室場面である。

 安倍首相の著書に、この『三丁目の夕日』が取り上げられているという。

 「美しい国」の学校は、姿だけを見ればあまり変わっていないか…。
 変わったのは見方であり、人の心持ちである。

キーワードを波及させる信念

2006年12月10日 | 読書
 『集中が生まれる授業』(今泉博著・学陽書房)を読んで、
 今泉実践のキーワードは、「推理」「想像」であることが読みとれた。

 改めて、「初めての出会い」であったベネッセの冊子を読み直してみると
案の定「推理と想像力がかき立てられる授業」が図化された中心にある。

 単行本に挙げられているいくつかの実践例にも興味をひかれたが
冊子のインタビューにあったごく単純な一行の文が目をひいた。

例えば説明文の場合、タイトルの「アリの行列」という言葉だけで、内容のかなり重要な部分が想像できる

 かつて、「題名読み」と称して、本文を読む前に題名から想像できることなどを発表させていたことがあった。
 物語文が中心で、言ってみれば興味付けのねらいを持った活動だったと思う。
 しかし、ここでずばりと言い切られていることは
「説明文」「内容」であり、目のつけどころが違うと感じた。
 確かに「アリの行列」であれば、仮に1時間を費やしても題名読みは可能であろうし
 そこでの「推理」や「想像」が、本文と重なり有機的に働くことは十分予想される。

 著書にある社会科、算数などの実践例でも、導入に提示されるモノや資料は極めて少なく、限られた部分の場合が多い。

 それは、情報の限定こそが「推理・想像」の力に働きかけることに有効であるし
同時に「集中」も促しているという事実があるからだろう。

 実践のキーワードを持つということは、建前ではなくて
全てに波及させるという信念が必要だ、と改めて思う。

非情な教師が子どもを成長させる

2006年12月09日 | 雑記帳
 10月に上條晴夫先生とお会いして話をしているとき
何度か今泉博氏(北海道教育大釧路校)の話題が出た。

「挙手しない子は、指名しない」

というその考え方はインパクトが強かった。

 『授業づくりネットワーク誌12月号』の冒頭に、
上條氏の今泉氏へのインタビューが載っていて、興味深く読んだ。
 今泉氏の考えがわかりやすく紹介されている。

 実は以前ベネッセの冊子で、別の方がインタビューした記事を読んでいて
その時の印象的な言葉をこのブログにも残していたのだが
それは「連絡帳」のことであり、話の核となる部分を取り上げていなかった。
 それは今思うと、私自身の目が避けていたというようにも受け取れる。

「挙手指名はやめるべきだ」

 これは師と仰ぐ野口先生の言であり
表面上は、まったく正反対に位置する今泉氏の考えに対する戸惑いとでも言えばいいか。

 今泉氏は「どの子にも発言しない自由があり、教師はその自由を守るべき」という。
 野口先生は「発言したいことよりも、発言すべきことを言う」を主張する。
 今泉氏は「自由な雰囲気」の中で、子ども自身が自分で発言することを決定していく過程を重要視している。
 野口先生は、1時間の中での「向上的変容」を目指し、学習参加への責任を果たさせることで、子どもの力を鍛えていく。

 この違いは授業スタイルというより、教育観、人間観といったレベルのことではないか。

 混迷する社会を生きぬくという意味で、「言うべきことを言える」力は確かに必要だ。
 その点で、野口先生の主張はまっすぐにそこを捉えていると思う。
 しかし、今泉氏の方法が間違っているとはいえまい。
 4月に数人だった発言者は、三学期にはほとんど全員となるという。
 子どもが自分で決定し、そこに至るまでの葛藤を乗り越えたことは価値が大きい。

 どちらの手法の選択が有効か、検証する術はないだろう。
 子どもの「向き不向き」も重要なことではあるが
何より、教師がその精神や手法に共感できるかどうかにかかっているのではないか。

 そして実は、二つの手法がある点においてかなり似ているのではないか、という気がしてくる。

 教師は簡単には助けてくれない

 したくなくても指名され発言せねばならぬ子

 発言したいと思っても手が上がらず指名されない子

 どちらも教師の非情さ?感じながら成長し、力をつけていくのである。

みんな心にナイフをしのばせている

2006年12月08日 | 読書
 仕事をしている合間に、
「ああ、あの本の続きを読みたい」という衝動にかられたのは
久しぶりである。

 雑誌の書評を以前見かけ、興味を持ったことは確かだが
ネットで注文するほどでもなかった。
 しかし、書店でその表紙を見かけたとき
またぐっと惹かれ、ためらわず購入した。

『心にナイフをしのばせて』(奥野修司著 文藝春秋)

 内容はすべて本の帯の言葉が示している。

28年前の「酒鬼薔薇」事件
高1の息子を無残に殺された
母は地獄を生き、同級生の
犯人は弁護士として
社会復帰をしていた!


 「少年法」の抱える矛盾
 こうした事件に対して、「国家」は何をなすべきかというハードの面と
 事件を背負う家族らの心の闇というソフトの面が入り混じり
久々にぐいぐいひきつけられたノンフィクションであった。

 被害者の妹のモノローグという形が大半であるが
(そこにもちろん著者の構成の妙があるのだが)
被害者家族のたどった足跡がリアルに描き出され、心に迫ってくる。

 当事者の苦しみはわかりようがないことだけれど
傍観者はそうした言葉とは裏腹に、自分勝手なことを考えて
当事者たちを追い詰めることがよくあるものだと思う。
 これは、何も悲惨な事件でなくても、あてはまるではないか。
 
 妹のモノローグ部分で語られた次の言葉は、ごく平凡だけれど痛々しい。

 常識的な行動に、果たして人間の気持ちが込められているかといえば、そうでないことのほうが多い

読む速さに目をつける

2006年12月07日 | 教育ノート
「読むこと」には繰り返しこだわってきた。
 徹底しているとは言い難いが、様々な切り口を提示することで
取り掛かりのためのヒントとなればいいと考えている。


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 4日(月)のセミナーの質疑応答のときに、講師の佐藤正寿先生からこんなお話がありました。

  「国語と社会の教科書は、読ませています。」

 何気ない一言ですが「やはり」という思いはありました。学習活動の基礎としての「読む」を怠らず進めていくことは、学力を高めるためには必須だと思います。
 8月の職員会議の折に出した「つながる授業 4」では、二学期重視したい活動として次の二つを提言しました。

   ① 徹底的に声に出して読ませる  ② 発言の仕方を教える 

 あまりに普通のことであり逆に意識するのが難しかったかもしれません。
 しかし二学期のまとめの今の時期、どのくらい実施できたのか、効果は上がったのか、実施できなかったとすれば何が原因か、などをチェックしてみることは必要だと思います。

 ①に関して中心となるのはやはり国語科の音読だと思いますが、音読の実態についてどんな方法で把握しているでしょうか。
 6月に「筆速」のことを話題にしましたが、「音読」にも「読速」があります。経験則から言うと、これも知識・理解面の学力と大きく関連があるようです。
 どの程度が妥当な目標になるのか、あまり資料はないようですが、ある実践記録に載っていた小規模校の「到達平均」を示してみますので、参考にしてください。(かなりレベルは高い方だと思います)
 評価に役立てることもできるでしょう。

【1分間で何字読めるか(既習教材)】
 1年 330字  2年 304字  3年 337字  4年 410字 
 5年 450字  6年 613字  
 (設定目標は学年によって違うが250~360字)

 1分間に360字を読むならば、二、三年生で「早い子で10回程度、遅い子で30回程度の練習によって達成することがわかった」という記述もありました。

「布石の連続」を具現化する教師

2006年12月05日 | 雑記帳
「授業は布石の連続」

 有田和正先生の有名なことばである。

 有田先生に憧れ、教師修業を積まれてきた佐藤正寿先生の授業は
その言葉を見事に具現化していたと思う。
 
 導入の写真クイズからスムーズに本時の課題「オリンピック」へ結びつける
 児童の発表に対して切り返しの問いを重ね、ねらいに必要な事項を引き出す
 児童の考えを尊重しながら、必要な用語のおさえをはかる等々
お得意のIT活用を図りながらのめりはりのある授業だった。

 そしてその「布石」は、単に「授業づくり」という視点を超えるものだったと思う。

 「学習技能」や「学習規律」という面での声かけが非常に多かったという事実。
 これは、教科学習全般、学級づくりへの布石ととらえることができるだろう。

 そうしたことを、飛び込みの授業で強調するということは何を意味するか。

 私は、大きく二つのことを考えた。

 一つは、自学級で重視していることの表現。
 つまり、佐藤先生からの提言ということである。

 そしてもう一つは、出合った子どもたちに対する誠意である。
 飛び込みという、制限された時間、環境の中では
軽視されても当然のことであり、責任が問われることなどない。
 そうした中にあって、にこやかにその心を発揮できることに
佐藤先生の並々ならぬ力量と熱意を感じた。

 子どもの作業や返答に対する声かけは常に肯定的であり、励ましに満ちていた。
 それは教室だけでなく、終了後の懇談やメールでの交信でも変わらなかった。

 その姿は「教育」に対する布石の連続と表現するにふさわしい。

 今冬最初の寒波の中を、笑顔で本校に駆けつけてくれた佐藤正寿先生に改めて感謝したい。

学習意欲を大雑把にとらえてはいけない

2006年12月03日 | 雑記帳
 来週月曜日は、外部講師を迎えた連続セミナーの最終回である。

 講師は佐藤正寿先生

 6年生の社会科のとび込み授業をしていただき、その後に講話を予定している。

 IT活用はもちろん学級経営などでも精力的な実践を残されている先生なので、非常に楽しみである。
 テーマを「学習意欲を高める」とした。ITや教材開発などの面から意義のあるお話が聴けることであろう。

 さてテーマの「学習意欲」という言葉は実に一般的?なのだが
改めて、どういう意味なんだろうとふと考えた。

 「学ぼうとする気持ち」「勉強に対するやる気」などと言葉を砕いてみるが
それだけではかなり大雑把な気がする。
 
 学習意欲とは何物か?

 関連する資料がないかと教育雑誌などをあたってみたら
『児童心理 2005.6』に大阪教育大学の田中博之氏の論文が目についた。

 学習意欲を構成する15の力

 「学力の観点」として、「探求意欲」「自信・自尊感情」から「学習注意力」まで細かく分かれている。
 そして、具体的な子どもの姿(「学習対象の特徴を興味を持って調べようとしている」など)が示されて、表となっている。
 「成長動機(自分の力を伸ばしたいと思う)」
 「テスト対応力(テストで間違えた問題をやり直している)」
 「宿題遂行力(宿題はきちんとやっている)」
といった項目まである。

 表を見ながら、「この子は学習意欲が高い、低い」という言い方がいかに大雑把なものか反省されられた。
 ともすれば、「活発な発言」や「深く思考する姿」「熱心な作業」といった表面的なとらえで学習意欲が高まったと判断しがちではなかったか。
 
 細かく観点化することで、おそらくどの子にも「学習意欲が高い」部分があることに気づく。
 その部分に着目し、他に波及させ、うまく回転させることが
学習意欲を高めることの本質ではないか…

 個別の働きかけは、その子のどの部分に対応しているか、
また、どこをつなごうとしているのか。
 振り返って意識してみることで、実践が一つ強くなるような気がする。

おもしろがる、不思議がる教師への道

2006年12月01日 | 雑記帳
 『児童心理 2005.6』(金子書房)の冒頭論文で、奈良正裕氏(上智大学教授)は次のように書いている。

 上手にいい点数を取ることに焦点化された形式的な学びへの意欲から、子どもの求めとの関係や学習内容それ自体のおもしろさに支えられた実質的な学びへの意欲へと、その質を転換することが重要だ

 もっともなことである。
 そして奈良氏は、「具体的な手立てはたくさんある」が、肝心なのは「教師をはじめとする大人」の意識の問題だという。

 子どもたちが実質的な学びへの意欲を沸き立たせ、どこまでも主体的に学び続ける教室の中心には、常にあらゆることを好奇の目で眺めてワクワクし、自らの納得がいくまで追究の手をゆるめない先生がいる

 この文章は確かに一つの理想だろう。
 しかし現実的な運用(姿というべきか)が、現場人の発想である。
 それは、やはり特定の教科なり、学級経営のある手法に絞るべきではないか。
 そうでなければ、少なくても初等教育ではパンクの状態と言える。

 ある教科を軸にして、担任の「おもしろがる姿・不思議がる姿」があれば、子どもたちの意欲を高めていくに違いない。
 そして、これもある面では計算された形で実現されなければならない。
 それが授業づくりというものではないのか。
 限られた時間でどれだけの追究ができるか…
 全員に身につけさせたいことを、どんな手法を使って行うか…
 考えるべきことが数々あって、おもしろがるどころじゃない!

 いいや、ここはやはりおもしろがり、不思議がってみせなければならない。
 これはけして表面的にということではなく、
 そうした姿を数段階で持っていることが理想と思う。
 言ってみれば、
 教師自身がおもしろがる、不思議がる教材との出会い、葛藤
 教師自身がおもしろがる、不思議がる課題、問いかけの選択、創造
 そして、子どもの発想、発言、行動をおもしろがる、不思議がるという感性

 すべてが無理なら、どこかに特化しても構わない。
 そんなふうに、道を探っていくことだ。