すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

最初の発語は大事なものへ

2019年02月20日 | 読書
 もう一度『大人のいない国』から。ほぼ毎日、言語を獲得する前の孫と接していると興味深いことが多い。繰り返している物、人の名が分かりかけている時期だが、この後どんなふうに発語するのか楽しみである。この文庫の終章は対談で、テーマが「身体感覚と言葉」。言語の生成や獲得について、関心が高まった。


2019読了18
 『大人のいない国』(鷲田清一・内田樹  文春文書)



 オノマトペの話題が面白い。言語学研究においては主流でないらしいが「普通の言葉より抽象力がある」ことは確かであり、その出来方は興味深い。ギラギラ、ガリガリ、ツルツルなどは想像できるが、オメオメ、ノコノコといったような何も擬していない語たちは、いかにして生まれてきたか。それは身体感覚だ。


 鷲田は「舌が内蔵の先端」という考え方を知り、そうしたオノマトペの生ずるときの内臓感覚に思いを馳せる。ネガティブな語の多さにも触れ、感覚的に受け入れられない場合に抽象化されるズブズブ、ヘラヘラ、ヨロヨロなどは確かにそうだ。そうした語を「ある種のアラーム」と内田が位置づけた慧眼にも驚く。


 それと関わって鷲田が「子どもは大事なものを最初はある一つの音に全部託してしまうんです」と、例を挙げたのが「ママ」という語だった。言うまでもなくお母さんであり、ご飯。英語ではMammaは母であり、乳房でもある。ちなみに哺乳類はmammalだそうである。そこからローカルな言葉の例が一つ挙がった。


 京都では仏様の前で「マンマンチャン・アン」と、大人が子どもに拝み方を教えるという。自分が今孫相手に口にする「アマンマ、トウダイ」という祭壇へ拝み方と共通しているではないか。『秋田のことば』で調べたら「あまま」の見出しがあり「仏様。幼児語」とあった。最初の発語は大事なものへ向けられるのだ。


コメントを投稿