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ノイズと無秩序が大人を育てる

2019年02月19日 | 読書
 国会の統計不正論争はもはや不毛。昨日の某議員発言がとどめを刺す。「総理大臣に官僚が良い数値を持ってきたら、それはいいから悪い数字はないのか、困ってる国民はいないか、社会の矛盾が埋もれてないか。そういう総理なら数値論争は起きてない」。まさしくまさしくと頷く。この国には大人がいないと思い知る。


2019読了18
 『大人のいない国』(鷲田清一・内田樹  文春文書)



 6年前の文庫発刊のときすぐ読んでいる。「大人のいない国の大人に学ぶ」と題したメモも残してあった。そして今回また新たに目を見開かされた箇所がいくつもある。第一章の対談の冒頭から、今の現実場面にそっくり当てはまるような話が繰り広げられている。政治家や経営者の「幼稚」に言及し、鷲田はこう語る。

 皮肉な見方をしたら幼稚な人でも政治や経済を担うことができて、それでも社会が成り立っているなら、それは成熟した社会です。


 「幼稚なままでちゃんと生きていける」社会は、世界を見れば極めて特殊であり、それがつぶれないで済んでいる現実の脆弱さや危うさを指摘している。その社会で生きていくことは、個にしてみればラクチンだが、心に抱える不安はとても強い。個に成熟させない心を育んだ消費者マインドは、実に頼りないものだ。


 特に第4章「呪いと言論」が興味深かった。「祝い」「呪い」は内田がよく掲げるテーマだ。ネット社会においてこの二つの割合は、発語される総量のなかでどうなっているのだろうか。極めて印象的には、悪口雑言が圧倒的に多い気がする。「言論の自由」を守ることは最重要だが、言祝ぐ文化の侵蝕は著しい。


 この国では便利で淀みない暮らしを実感できる。同時に、それを担保する様々な規制が、公的私的に張り巡らされ息苦しさを感じることがある。不寛容さも増している。表面上「成熟した社会」の内部では腐食も進行しているのではないか。その進行を止める大人の存在が不可欠だ。行動指針を内田の文章に見つけた。

 あまりに好調に機能している「全国民の規格化・標準化」工程に意図的にいささかの「ノイズ」を発生させ、システムに局所的な「無秩序」を生みだすこと。それが「大人」育成のためにもっとも確実な手立てだろう


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