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わかったような気になるな

2023年03月08日 | 雑記帳
 「物語」という語は「散文の文学作品」が最も一般的な意味だが、「ある事柄について話す、語り伝えられてきた話」という語義から、物事全般のストーリーもしくはヒストリーという点が強調され使われている。例えば「商品を買うことは、背景にある物語を買うことなんだよ」などという言い回しをよく聞く。


 ある雑誌で文筆家千野帽子の「物語の力とは?」という文章を読み、一つ考えが深まる気がした。千野は「何かの出来事を理解しようとする時」に「時間の概念とセットして捉えないと、ちゃんと理解できない」と、ごく当たり前の論理ながら、「世界を物語としての理解」することの人間の習性について語っている。





 つまり「因果関係」を明らかにして物語を「なめらかに」すること。それによって出来事はわかる感じがする。「どうやら私たちは、出来事の意味を『わかりたい』生き物のようです」の一文は腑に落ちた。毎日報道されるニュースで繰り返される様々な「動機」「経緯」などの説明があればこそ、意味は掴めるのである。


 ところが現実には容易にはっきり掴めない出来事もある。ロシアのウクライナ侵攻や北朝鮮の国内外の動きなど、身近に感じる典型だ。我が家夫婦の「何故こんなことをする。大変な目に遭っている人たちは…」という繰り言は、その因果関係を正確に把握できない、「攻撃」する側の物語を吞み込めない象徴でもある。


 おそらく地政学の知識で語られる因果関係はあろう。しかしそう思っても正直、不条理と捉えてしまいがちだ。その心性のままでTV等で溢れる情報の都合のよい部分をつなぎ合わせ「物語」をつくっていいのかと立ち止まる。国中でそれが多勢になり充満すれば、さらに不幸な現実へ突き進む予感がする。警戒せねば。


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