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3Kに支えられてきた意義

2018年05月10日 | 雑記帳
 仕事の3Kと言えば、いわゆるブルーカラーの「きつい・汚い・危険」。しかし最近では「新3K」として「きつい・帰れない・給料が安い」が、様々な職種に当てはまるようで時々見かける表現となった。学校現場にも、かつて3Kがあり、わが師はそれを「学校曖昧3K」と称していた。「勘・経験・記憶」である。


 それは昭和50年代に職に就いた者の多くが経験したことだろう。典型的なのは職員会議の場。紫煙がたなびく!その一室で(実は私も吸っていた)提案文書もない話し合いが延々と続くことがあった。「あの時はこうしていた」「それは誰々がやることだ」「あっちの方がよかったはずだ」…数年はそんな感じが続いた。


 と、どうでもいい昔話を思いしたのには訳がある。地域にある地蔵尊の祭典当番になり、様々な段取りを組もうとすると、どうしてもこの「勘・経験・記憶」に頼る方々と向き合うことになる。今の土地に引っ越して約30年。当番も3回目で繰り返しているから承知しているとはいえ、壁のように感じてしまう時がある。


 家に帰って「なんだか昔の職場と似ている」としばし家人と笑いあった。しかし、よく考えてみるとそれは明らかに違う。祭事と生業を一緒にしてはいけない。何故なら、こうした神を奉る形は人間の記憶と経験に支えられて存続するものだからである。合理的な考えと相対する存在を尊ぶこと自体に、意義を見出す。


 祭事に達成目標があるわけではない。個々の祈念や信心を、周囲との協働によって確認する場である。だからこそ、新しい何かを持ち込むためには配慮を要する。しかし旧態依然で続けてよしとはならない。人口減少、地縁関係の変貌、価値観の多様化が爆発寸前のように蠢いている。鎮める祈り以外の行動が必要だ。

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