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「矢」ではなく「砂」の時代

2018年05月11日 | 雑記帳
 朝ドラ『半分、青い。』で、永遠のアイドル(笑)の一人である原田知世が、武田鉄矢(金八先生)のモノマネをする箇所が数回あった。なんとなく観ているこちらが恥ずかしくなる感覚になってしまったのは私だけか。それはともかく、その真似が一つの時代性を表わす仕草でもあることは確かだと再認識させられた。


 『金八先生』の後に『刑事物語』等の映画やドラマ出演、そして司会等もこなし、さらに何代目かの『水戸黄門』役をこなす武田鉄矢。野暮ったさを持ちながらも真っ当なことを言う人柄のように、視聴者の多くは感じているのではないか。そんなイメージに対してライター武田砂鉄(氏名が一字違い!)が噛みついた。

 cakesの連載に次のように書く。

 武田鉄矢という、「自分はいつだって規範になりうる」と信じて止まない話者がいるが、山口達也の事案を受けて、「(TOKIOに)すこし濁ったイメージがあるともうちょっとよかったのかもしれないですけど」「あまりにもみんな、清潔なものを求めすぎている」と苦言を呈していた。自分は視野が広い、と信じ込んでいるのだろう。


 直接画面を見てはいないが、いかにも言いそうだし、あの口調が聞こえてきそうだ。そして、確かにソウダヨナと肯きそうになることも認める。自分も含めた中高年の多くは同意する物言いだろう。もちろん、どういう場で発言するかは重要だが、それ以上にその程度の規範意識が覆っていることを認めねばならない。


 私たちは「あまり細かいことを気にするな」という声のなかにある、心底を疑ってみることを課すべきだろう。他者が介在している出来事において通用すると考えてはいけない。大物政治家も最近の事案で似たようなことを言うが、まさしく強者の論理ではないか。それは、確実に武田鉄矢の言辞につながっている。


 現状は「武田鉄矢的な規範がまだ機能してしまう社会」なのだ。それが全く「悪」だったとは考えにくいが、育つ芽を摘んできたことも確かだ。のように脇目もふらず真っすぐに向かう時代ではなく、のように細かくもろい足元に気を配り一歩ずつ進む時代であることを、「鉄矢」を批判した「砂鉄」が教えてくれた。

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