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未熟者は常套句を選ぶ

2018年05月25日 | 雑記帳
 今回の日大アメフト問題について語られたなかで、「言葉」を取り上げた文章が目に留まった。いずれも考えさせられた。


 5/24の地元紙(共同通信配信か)で、評論家の玉木正之は「言葉軽視の未熟な指導者」と題した文を寄せている。

◆スポーツの指導に一番大事なのは、選手に掛ける言葉の質だ。指導目的や目指すべき方向をきちんと説明する責任がある。だが、内田正人前監督と井上奨コーチは言葉を軽視しており、未熟と言わざるを得ない。(後略)


 特定の個人が未熟であることだけを指しているわけではあるまい。そうした傾向が我が国のスポーツ界には少なくないだろう。


 同じ5/24に、中島岳志は次のようにツィートしている。

◆日大アメフト問題も、やはり「言葉の崩壊」という問題だ。「クオーターバックをつぶせ」という発言を、社会問題化した後になって「思い切って当たれという意味」と弁明し、勝手に言葉の意味を変えてしまう。世界は言葉によって成立しているので、言葉が崩壊すると世界が崩壊する。

 言葉の軽視というレベルでなくなってきている。社会全体に蔓延している気配もある。その責任の所在の一つに、国家をリードしていくべき方々の諸問題が続いていることがあるのは確かだろう。


 5/22に小田嶋隆がツィートしたことに、私たちはきちんと向き合う必要がある。

◆「言葉足らずだった」「誤解を招いた」という形式で発信される謝罪は、一見、反省しているように見せかけていながら、その実、「言葉を読解しきれなかった人間」「誤解した聴き手」の側に主たる責任を転嫁してしまっている意味で、著しく誠実さを欠いた態度だと何度言えばわかるのだろうか。

 常套句になりつつある謝罪、お詫びを選択しようとする心に潔さはなく、似たようなことを繰り返して堕落していくのだ。

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