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「綺麗事」と現実を結ぶ眼

2021年09月29日 | 雑記帳
 NHKの朝ドラ『おかえり、モネ』。今朝は、主人公のモネが親友から故郷へ帰ってきたことを「きれいごと」と言われた所で終わった。見続けている者なら、この二人の境遇や関係を理解しているしその意味はわかる。まあおそらく理解しあえる結末になると予想するだろう。さて、自分に響いたのはそのコトバなのだ。


 「きれいごと」(奇麗事・綺麗事)…「見せかけの体裁を整えただけで、実質の伴わない事柄」と明鏡国語辞典にある。これが一般的な意味だ。広辞苑でも②は同様で、前に①「手ぎわよく美しく仕上げること」という肯定的な意味もある。③には「よごれないで済まされる仕事」とあり、対になるのが「よごれ仕事」か。



 ドラマのことではなく、最近ずっと煩かった某政党総裁選や任期を終える総裁の言葉、また野党も含めて政治家たちの声が過剰に耳に入っていたので、引っかかってしまったのか。「綺麗事を言っているのは誰か」「よごれ仕事ばかりを頑張ってきたのではないか」と。が、「きれいごと」には別の解釈もあり得るはずだ。


 シソーラス(類語)を開くと、一番初めに「王道」という語が載っている。その欄には「本道」「真っ向勝負」「正論」という言葉が並ぶ。そうした意味での「綺麗事」ならば非常に結構と思うのは私だけではない。問題なのは、この国の政権が、最近とみに言葉をないがしろにしてきたせいで、見極めが難しいことだ。


 政治を志した者は初め、より多くの人の幸福を願って歩き出したに違いない。その時心には「綺麗事」を宿していた。しかしいつの間にか道を逸れたり、道々の黒く染まった者から手足を掴まれたりして、綺麗事は内面を失ったのだ。今見極めるべきは、綺麗事と現実を結ぶその眼がどこを向いているか、その一点だ。


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