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戻らない現実に胸が痛む

2020年06月27日 | 雑記帳
 「記憶」という熟語の成り立ちが、記←憶(おぼえたことを記す)なのか、記・憶(おぼえるの同意反復)なのか判然としない。ただ、「憶」は「」の通用字とされて、もともとは「臆」の方だったような気がする。「胸の内」「推量」を意味する臆の字は、ふだんあまり使うことはないが、なかなか味わい深い文字だ。


 前に紹介した絵本「心ってどこにあるのでしょう」に倣って自問すれば、「胸」と答えたくなる出来事をたくさん経験できれば幸せだ。「胸が熱くなる」「胸に迫る」など多くの慣用句が象徴している。胸に刻まれた事物は忘れがたいし、そこまで届かないから一過性として処理される。毎日幾千万のことが通り過ぎる。



 昨日書いた、思い出せない名前の件は、記憶とは面白いものだなあと改めて考えさせられた。周辺については覚えているのに、肝心の「誰」を指す氏名が浮かばないことは以前にもあった気はするが、今回の思い出せない名字について「簡単な、画数の少ない漢字」というイメージまで湧いていたことにびっくりした。


 たどり着いたら、やはり簡単な漢字だった。図形的な認識は出来ていたということかしらん。もう一つは、その名字は●○という漢字2字であり、●については風呂に入っている時、仕事に就いていた頃のあるエピソードと共に、別の人物の名前が浮かんだことで思い出した。そこまで分かっても○は判明しなかった


 ところが数時間後に○がぽっと…何の刺激か姿を現わした。内なる機能は生きていた。ところがこれを機械に頼ると、誤操作などすると復元できない現実に直面してしまう。今朝、必要があってPC内の住所録を開こうとすると見つからない。検索も駄目。消去するわけないと言い訳しても、もう戻らない。胸が痛む


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