すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

周縁からじっと見る類型

2016年06月17日 | 読書
 『ことり』(小川洋子  朝日文庫)



 久しぶりの小川洋子。いつもながら「静謐」という形容がぴったりする文体である。イメージできるのは、中学や高校の教室に必ず一人はいた文学少女の存在で、その子が深く見つめる現実、心の中で膨らませている想像が描かれているような錯覚を覚える。今回、気づいたのはどの登場人物も典型的だということだ。


 主人公は「小鳥の小父さん」と称され、解説によると「マージナルな人」つまり社会の周縁に追いやられている存在に見える。小鳥のさえずりを理解する兄の言葉を唯一わかることが、社会生活を営むうえで優位に働かない事実は、どこか暗示的である。人に必要とされる能力とは結局のところ、ひどく功利的なのだ。


 その小父さんに関わり合い、物語の要素をつくる人は、それぞれのパーソナリティが明確だ。一般的な善人である幼稚園の園長、その後任園長はエゴと保身で固まっている。薬店の主人は親子共々、自らの位置を崩さずに語るだけの人間、そして心を寄せた若い図書館司書は、優しい心をもつゆえに受難に晒される。


 虫の箱をつくりマツムシの鳴き声を聞く老人は、視野狭窄ゆえに強く生きられる。そして最後に登場する、メジロの鳴き合わせに興じる男は、物事の価値判断の磁場が狂っている。主人公の母親や少女の存在も含めて、この世に居る様々な人の類型が示されている気がした。自分は誰かに近いか、そんな観点でも読める。


 さて、小鳥の存在をよく表していると思う吉野弘の詩がある。「素直な疑問符」の第二連を引用する。

 わからないから
 わからないと 素直にかしげた
 あれは 自然な、首のひねり
 てらわない美しい疑問符のかたち。


 この一節を思い出したのは次の会話を読んだときだ。「鳥の目は両側に付いている。だからものをじっと見ようと思ったら、首をかしげなくちゃいけない。生まれつき、考える生き物だ」。『あん』で書いた「聞く」も、じっと「見る」も考えることに変わりない。要はどれだけ心が籠められるか、籠める方法を磨けるか。