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網棚の上の人を見る目

2014年09月08日 | 雑記帳
 土曜日のPTA研修会の講演を聞きながら,ちょっと考えたことがあった。

 「学校統合」がテーマなのだが,前置きとして講師がご自分のことを語られた。
 高校生ぐらいまでは,ものすごく神経質だったこと。
 東京の大学に行って,もまれるうちにその性格が変わったということ。

 そのきっかけになったエピソードが痛快だ。
 剣道部の先輩に,電車に乗っているときに「音楽が聴きたい」と言われ,その車中で歌をうたったという。
 しかも,網棚に上がって横になった状態で…。
 (網棚は上がるのは簡単だったが,降りるのに難儀したという様子にも笑った)
 何を歌ったかはもはや覚えていないが,歌い終わったときに車内にまばらな拍手があったそうだ。


 はっきり言えば,まあいじめ行為だろう。
 しかし,バブル期の東京では糾弾されず見過ごされた。
 一人一人の思いはわからないが,その突飛な行動はある意味の潔さを持って,受け入れられたか。

 そういった状況が,もし今,起きたらどうなるのだろうか…そんなふうにまた妄想が始まった。

 もちろん,今どきそんなばんカラな学生などいないと思うが,あり得ない話でもない。
 その行為を止めるか止めないか,というより,周囲はスマホで撮影してネットに流すだろうな,という予想が出てくる。そう考えてしまう人は私だけではないだろう。

 こういう予想が立つ社会とは、どのような心が渦巻いているのだろうか。

 私たちは目の前の行為に対して,直接関わったり,見て腹を立てたり,心配したり,また気持ちを近づけないように無視したり…多くの感情を持つ。
 そして理性を働かせながら,行動に移す,はずだ。

 スマホや携帯で写す行動は,誰かにこのことを知らせたいという気持ちの表れか。
 いや,それより自分がそういう場に居合わせたという自慢が大きいのかもしれない。
 人が生きている現場への関わり方として,どうだろうと思ってしまう。

 もちろん人は昔からそうした気持ちは持っていた。しかし,その術は語りであったり文であったりした。
 それから写真,動画ができ,それらが同時性を持つようになった。

 持っている道具によって,行動が支配され,それに伴って精神の在り方も違ってきたか。

 ヒトは,道具の製作・使用によって,文化活動を築いてきたことは間違いない。
 しかし,やはり,その進展によって失ってしまったことはあまりに多い。それらは,はっきりと意識せぬままに消えていった。

 情報機器の目まぐるしい進化は,網棚の上の人を見る目を大きく変えてしまった。