すぷりんぐぶろぐ

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「つつしむ」の姿とは何か

2007年02月25日 | 雑記帳
 給食の時間に、隣にいた子が「Yes I do」などと言っている。
 前の時間に、英語活動でもしたのだろうか。

 「Yesってなあに?」
  向かいの子が口をはさむ。
 「はい、のことだよ」
 「じゃあ、Iって言うのは?」

 周りの二、三人は顔を見合わせる。
二年生では無理もないか…背割りパンに、ウインナーソーセージをはさみながら少し会話した。

 次の日、外山滋比古氏が書いた「むづかしい『私』」という文章を目にした。
 日本語が「私」という主語がなくても話せる言語であることは、かなり以前から意識できていたが、言語学者に改めて強調されると、また納得のいくことがあった。外山氏はこう書いている。

 たとえば「買います」は「私は買います」とは意味が違う。「買います」だけで私が買うことになり、「私は買います」すは、ほかの人はどうか知らないが、私は買う、という強い言い方になる。そういう必要もないところで「私」を出すのは、自己顕示的になって、おもしろくないのである。

 「私」という言葉を出すことだけで「私」が他の要素を上回って強調される、という、なんとも厄介な言語文化である。
 外山氏の文章には、かつての大女優である田中絹代が、渡米したあとの記者会見で「ワタシ、ワタシは…」と連発したために、アメリカかぶれとされて人気を失ったというエピソードが記されていた。

 この「私」は、最近カウンセリングの言葉として目にすることがあるが、「強い言葉」であるからこそ、取り入れられるのだなあと思った。教育の場でどういう場面で使ったら効果的か、がもっと考えられていい。

 外山氏は書いている。

 日本文化は「包む」文化であって、ムキ出しを嫌う

 自分のムキ出しが一番嫌われるわけか…。
 そう言われれば「つつしむ・つつしみ」という、いい言葉もある。
 広辞苑では「包む」と同じ語源とある。なるほど、自分の心も包んでなるべく見せないようにするのが、日本の美であるか…
 
 待てよ、と思って、念のために「つつしむ」を語源辞典で調べる。

 イツツシムルの略。五つ締むるの義という。

 えっ、さらに「五つは陰陽五行のことで、特に土を締むるの意」とあるではないか。易学では「義を行なう」の意が転じたことばとされるらしい。
 
 「つつしむ」とは、人間の行うべきことを「私」を秘して淡々と黙々としている姿であるか…

 私は、納得しました。