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あかつき書房、森鴎外『伊沢蘭軒』

2007-05-20 03:17:27 | 本、文学、古書店
友人との待ち合わせまでの時間、古本屋をのぞいた。

森鴎外の『伊沢蘭軒』(ちくま文庫)上下二冊を買った。三宮センター街(神戸市)のあかつき書房。ここはだけど垢のついた本など一冊もなく本当にきれいな本ばかりそろえてある。人文科学系の専門書も多いし、二階の文庫の棚は特に岩波文庫が充実している。

「伊沢蘭軒」とは江戸の医者で儒学者。やはり鴎外が伝記を書いた渋江抽斎の医術の師匠に当たる。さて鴎外の書く伝記は、学校の図書室にある「エジソン伝」みたいな教養のための「実用書」ではなく、やっぱり文学と言うべきものだろう。実用的見地からすればほとんどまったく「役に立たない」という意味で。

起伏のあるプロットが小説作品の面白味だとすると、鴎外の伝記作品は、面白くない。伊沢蘭軒も渋江抽斎もその生涯がとりたてて波乱に富んでいたというわけではない。そこを鴎外は記録を渉猟して編年的に細かく人物の人生をたどっていく。『伊沢蘭軒』はまたやたらと長い。

じゃあ何で面白くないものを買うんだと聞かれれば、ちくま文庫の「鴎外全集」の前巻までをもっていたからとか二冊揃いで安かったからとかあるけれど、やっぱり鴎外が好きだからということになる。何で好きなんだと聞かれれば……何でですかね。

それはもしかすると上に書いた「役に立たない」ものの強烈な魅力かもしれない、とも思う。作家自身「役に立ってなんかやるものか」と凄んでるのか拗ねてるのかわからないそういう態度を意識的にとっていたということがあるだろうけど、単に鴎外の個人的な開きなおりや反抗心なら誰もそんなものに付き合いはしないはずで。

「わたくしの作品は概してdionysisch[ディオニュソス的]でなくって、apollonisch[アポロン的]なのだ。わたくしはまだ作品をdionysischにしようとして努力したことはない。」と書いている小論「歴史其儘(そのまま)と歴史離れ」なんかは何だか鴎外のつぶやきを耳もとに聞くみたいで感動的なほど率直さの伝わってくる作品なんだけれど、さあ、鴎外の伝記作品に表われている問題の本質は、ディオニュソス的・アポロン的の対立や、歴史の「自然」というところにあるのでもないような気がする。

鴎外作品に漂う歴史的緊張感。それも「日本史」とか「近代」という水準の問題じゃなく、芸術固有の歴史的危機感。そういうものが鴎外作品にはあるのじゃないか。アドルノ(ドイツの哲学者)が、芸術作品というのは交換の原理に台無しにされることのなかったものの代理なんだと言っている。つまり交換に乗っからないような非実用的・無用のものだと。最近また数十億円の超高値で絵画が取り引きされたりしてるけど、そういうニュースに僕らが感じる違和感は、貧乏人のやっかみだけじゃなく、やっぱりそんな形で絵画が「不当に」扱われているということに居心地の悪さを感じているのじゃないかしら。

明治・大正期の芸術シーンがどうだったかというのは、ヨーロッパの文物がどっと押し寄せみんなびっくり、ぐらいにしか不勉強で知らないのだけれど、「日本的・漢文学的」とか「ヨーロッパ的」といった水準の問題というよりは、アドルノの言うような、無用なものと有用なもの、芸術と芸術でないものという問題、あるいは、作品として読めるものと読めないもの、その境界を行く緊張、そういうものに鴎外の「面白くない」作品は触れていると思う。これは文学・芸術にとっては、その生命に関わる、いつでも重大な問題だろうし、とりわけ拝金主義のいきわたった現在には重大な問題にちがいない。

ところで、今日買った『伊沢蘭軒』もそのシリーズである、ちくま文庫の「森鴎外全集」、これが全然「全集」ではない。翻訳作品は「ファウスト」と「即興詩人」ぐらいしか入っていない。えらく恣意的な全集だ。何でこれを「全集」と言っちゃうんだろう? まあこちらも、『伊沢蘭軒』にせよ有難がって隅から隅まで読むつもりはないんだけど。それにしても、何だかずっと気持ち悪くて。
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