しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

京の古本屋

2007-05-18 01:25:22 | 本、文学、古書店
久しぶりに京都の街を歩く機会にめぐまれ、今出川通りから白川通りにかけて何軒か古本屋をめぐることができた。

古本屋に並ぶ本の傾向にも確かに地域性はあって、それは供給者の問題でありニーズの問題であり、やはり京都は大学の街ということで刺激的なラインナップだ。その街を底で支えている知の力は、古書店に噴出口をみつけてあらわれる。

地元の神戸にもいい古書店はあるけれど、たびたび立ちよる中ですこしずつ商品が入れ替わっているのをみる楽しみはそれとして、たまに京都や神保町へ行って、うずたかく積まれた質・量ともに巨大な本の森へ分け入っていくのには特別の喜びがある。

といって、すべてが新しいかというと、あの数万円する原書のシェリング全集は十年以上前からあそこに積まれたままだなあとか、学生時代の無為の時間がふとよみがえるような光景に立ち会い、不思議な感慨を感じたりする。

いつもさがしている本が何冊かあるけれど、最近特に意識していたのは誰でもタイトルを知っている作品。新書でも買える。

モンテーニュの『随想録(エセー)』。

もし知らなかったなら、スノビズムの足りないあなたも悪いけど、何よりいまは時代が悪いのでしょう。

これは抄訳が何冊が出ている。全訳も岩波文庫で手に入るようだし、白水社からすこしずつ新訳が刊行されてるけど、岩波のは「ワイド版」というやつで本が不細工、白水社の新訳を全部集める気もない。河出書房の「世界の大思想」シリーズで昔出ていたのを、確か震災のすぐあと後藤書店(神戸・三宮)でみかけたことがあって、あれとまた出会えないものかなあとずっとさがしていたのだけど、まったく何であのとき買わなかったのか。すごく安かったのに。

で、京都の一軒で、やっぱり白水社から60年代に出ている三巻組みの全訳(関根秀雄訳)をみかけて手に取ってみたら、いくらだったかな、一万円ぐらい。よいしょと棚に戻してまた歩きだした。

ところが別の店でウインドーに並べてあったのが、二千円。しかも新品同様。支払いをしながら、何でこんなに値段がちがうんですかとたずねると、あそこは昔の値段だから、と。

結論。取材や営業と同様、古本の探索も足で稼ぐ(?)ものである。

とはいえ、である。いまの値段が二千円ならいまの値段の方がありがたいのだけど、昔の値段というのは本への敬意を表現した値段のことだろうか。

幸運な出会いの喜びと、ちょっとした罪の意識を胸の底に、重たい本を抱えて夕暮れの京の街をぶらつくのだった。
コメント (1)
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