関典子さんという若手の現代舞踊家がいます。宝塚市の出身です。神戸のギャラリー島田で開かれた芸術サロン(火曜サロン)でダンスパフォーマンスとトークショーが行われました。
関さんの神戸登場はちょっとドラマティックなものになりました。去年の秋に兵庫県立美術館でジャコメッティ展が開かれましたが、関さんはこの展覧会に因んで美術館建築そのものの階段や回廊や壁面を使って創作のソロ・ダンス「ジャコメッティ・マニア」を踊り、これがなかなかの反響になったのです。今回の芸術サロンもそんな下地があってのことです。
さて、かく報告いたしているワタクシ即ちこうべねこは、実をいいますと「ジャコメッティ・マニア」というタイトルから早とちりにもジャコメッティを“なぞる”形のパフォーマンスを想像して、どうせオリジナリティーに欠けるプログラムに違いないと一方的に思い込み、その結果、昨秋の美術館公演はパスしてしまっていたのです。が、今回の島田サロンで一転、これが大きな間違いだったと思い知ることになったのでした。
トークとともにあらためてビデオで紹介された「ジャコメッティ・マニア」の世界は、まったく関さんの舞踊空間そのものでした。これまでにはないタイプの時空を築き上げるダンサーといってもいいでしょう。エッジの切り立つヴィジョンです。潜在力も豊富に見えます。
なにが特異かといいますと、とりわけ強調したいのは、このダンサーが自らの肉体から特定の部位を切り出そうとするときの、その手つきの鋭さです。わかりにくい言い方になったかも知れませんが、たとえば腕、たとえば手首、たとえば指、たとえば膝(ひざ)、たとえば踝(くるぶし)、たとえば足先、そこに一瞬の意味を付与するときの的確さと敏捷さとまぶしさです。彼女はまるで練達な石工のように自分の肉体から表現の石を切り出してくるのです。
「ジャコメッティ・マニア」で切り出されたのは眼球でした。すさまじいのは、肉体の他の部位がそっくり眼球を運ぶ道具になってしまうということです。いまや眼球が王であり、腕も脚も胴も頭もこの王を運ぶためのしもべです。肉体の上に、そしてその連続的な運動の上に、絶対的な独裁者の帝国が築かれます。眼球の帝国です。この帝国の宿命は、そして使命は、世界を見抜くということです。
想像してみてください。美術館の回廊を眼球が漂流していくところを。階段を眼球がゆらゆら下っていくところを。壁面に眼球が張り付いているところを…。それが関典子というコンテンポラリー・ダンサー(現代舞踊家)の表現です。
しかし、それはなんとジャコメッティそのひととの深い切り結びなのでしょう。ジャコメッティもまさしく眼球の彫刻家だったのです。世界を焼き尽くすほどに凝視しつづけた目そのものだったのです。
正確にはこういうことです。ジャコメッティがジャコメッティの仕方で眼球になったように、関さんは関さんの仕方で眼球になったのです。なぞったのではなく、ふたりの表現者がそこで交差したのです。それが創造の出会いです。
ですから「ジャコメッティ・マニア」というタイトルもいささかの修正が必要だ、とそんなふうにこうべねこが考えた、とこういうのが今夜の報告のシメなのです。もうすこし舞踊家の独自性・特異性のニュアンスが出たほうが正しいだろうな、と。たとえば「眼球の漂流―ジャコメッティに寄せて」とか。
▽
なおジャコメッティの彫刻作品そのものについての評はこのブログの姉妹編「Splitterecho」Web版の記事KOBECAT0031に掲示しています。ご参照ください。Web版はhttp://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/
関さんの神戸登場はちょっとドラマティックなものになりました。去年の秋に兵庫県立美術館でジャコメッティ展が開かれましたが、関さんはこの展覧会に因んで美術館建築そのものの階段や回廊や壁面を使って創作のソロ・ダンス「ジャコメッティ・マニア」を踊り、これがなかなかの反響になったのです。今回の芸術サロンもそんな下地があってのことです。
さて、かく報告いたしているワタクシ即ちこうべねこは、実をいいますと「ジャコメッティ・マニア」というタイトルから早とちりにもジャコメッティを“なぞる”形のパフォーマンスを想像して、どうせオリジナリティーに欠けるプログラムに違いないと一方的に思い込み、その結果、昨秋の美術館公演はパスしてしまっていたのです。が、今回の島田サロンで一転、これが大きな間違いだったと思い知ることになったのでした。
トークとともにあらためてビデオで紹介された「ジャコメッティ・マニア」の世界は、まったく関さんの舞踊空間そのものでした。これまでにはないタイプの時空を築き上げるダンサーといってもいいでしょう。エッジの切り立つヴィジョンです。潜在力も豊富に見えます。
なにが特異かといいますと、とりわけ強調したいのは、このダンサーが自らの肉体から特定の部位を切り出そうとするときの、その手つきの鋭さです。わかりにくい言い方になったかも知れませんが、たとえば腕、たとえば手首、たとえば指、たとえば膝(ひざ)、たとえば踝(くるぶし)、たとえば足先、そこに一瞬の意味を付与するときの的確さと敏捷さとまぶしさです。彼女はまるで練達な石工のように自分の肉体から表現の石を切り出してくるのです。
「ジャコメッティ・マニア」で切り出されたのは眼球でした。すさまじいのは、肉体の他の部位がそっくり眼球を運ぶ道具になってしまうということです。いまや眼球が王であり、腕も脚も胴も頭もこの王を運ぶためのしもべです。肉体の上に、そしてその連続的な運動の上に、絶対的な独裁者の帝国が築かれます。眼球の帝国です。この帝国の宿命は、そして使命は、世界を見抜くということです。
想像してみてください。美術館の回廊を眼球が漂流していくところを。階段を眼球がゆらゆら下っていくところを。壁面に眼球が張り付いているところを…。それが関典子というコンテンポラリー・ダンサー(現代舞踊家)の表現です。
しかし、それはなんとジャコメッティそのひととの深い切り結びなのでしょう。ジャコメッティもまさしく眼球の彫刻家だったのです。世界を焼き尽くすほどに凝視しつづけた目そのものだったのです。
正確にはこういうことです。ジャコメッティがジャコメッティの仕方で眼球になったように、関さんは関さんの仕方で眼球になったのです。なぞったのではなく、ふたりの表現者がそこで交差したのです。それが創造の出会いです。
ですから「ジャコメッティ・マニア」というタイトルもいささかの修正が必要だ、とそんなふうにこうべねこが考えた、とこういうのが今夜の報告のシメなのです。もうすこし舞踊家の独自性・特異性のニュアンスが出たほうが正しいだろうな、と。たとえば「眼球の漂流―ジャコメッティに寄せて」とか。
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なおジャコメッティの彫刻作品そのものについての評はこのブログの姉妹編「Splitterecho」Web版の記事KOBECAT0031に掲示しています。ご参照ください。Web版はhttp://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/
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