一昨日は藤田佳代舞踊研究所のモダンダンス公演(創作実験劇場=2012年2月25日、神戸・うはらホール)で上演された藤田佳代さんの新作「海」について書きましたが、藤田作品のほかにも印象に残るプログラムが二つ三つありましたので、今日はそれについて語っておきます。
1 向井華奈子「柘榴」
まず向井華奈子さんのソロダンス「柘榴(ざくろ)」。
裾に赤い染めを散らした衣装もめざましい効果となって、観客のぼくらに牙をむくような向井さんの強いダンスは、まるで舞台に血をぶちまけるようでした。
プログラムのコメントを読んだのはダンスが終わってからのことでしたが、そこにはボッテチェリの「柘榴の聖母」に触発されてこの作品を作ったと、そう説明がありました。
向井さんはその絵に受難と復活のビジョンを読んだのです。
なるほどなあ、と思いましたが、舞台の間、実はぼくは時代をぐんぐんさかのぼって、ギリシャ神話へと駆られていました。
柘榴は狂乱の神ディオニソスの流した血から生まれたという言い伝えがあるからです。
死の国に降りたペルセポネがそこで柘榴の実を食べて、それで地上に帰れなくなったという話もあります。
いずれにしても柘榴は生と死が交錯するとても危険な実なのです。
エロス(生)とタナトス(死)とサクレ(聖性)の果実だと、そう言っていいかもしれません。
ときにエキセントリックな動きで見る者を幻想へ誘う向井さんの独自のダンスは、その厚い重層構造をみごとに踊りきったと思います。
2 かじのり子「わたしに似た人」
さて、向井さんの作品が血をぶちまけたようなステージなら、次のこれは心臓をえぐり出すような舞台です。
かじのり子さんの「わたしに似た人」です。
舞台の中央に現われた舞踊家は、腰を屈め、クモのように身を低くして、じいいっと客席をにらみます。
暗い目で何かを捜している気配です。
これはコメントを幕間に読んでいましたから、そうか、とすぐに想像がつきました。
彼女は鏡を覗き込むように、客席の闇の中に自分の分身を探し求めているのです。
もっと正確に言えば、自分と自分の分身と自分に似たあの人の三つの像をそこに見つめているのです。
あの人というのは、二人の幼児をマンションの部屋に置き去りにして餓死するにまかせた、あの女性のことなのです。
舞踊家は、事件が明るみに出たあと、「わたしもあの人に似ているかもしれない」と感じた母親が大勢いることに大きな衝撃を受けたようです。
じつは舞踊家自身がすでに同じ感情を隠し持っていたからです。
隠し通したかったものが、多くの母親がそうなのだと知ったときから、隠し通せなくなったのです。
それが舞踊という表現に噴出することになったのです。
ならざるをえなかった、というのがたぶん本当なのでしょう。
舞踊家は、この作品のなかで繰り返し片方の目を手で塞いで踊ります。
恐るべき着想です。
塞がれた目の中にどんなに深い闇を見つめているか、それがぼくらにもまざまざと見えたのです。
ぼくもあの人に似ているかもしれない、そう思わないではいられなくなったのです。
3 灰谷留理子「Flow」
モダンダンスの身体表現の、とくに物理的な側面について興味深かったのが、「Flow」を踊った灰谷(はいや)留理子さんです。
灰谷さんはもともとクラシックバレエの舞踊家です。
バレリーナとして活動しながら、それと並行に藤田研究所に入門して、 モダンダンスにも研鑽(けんさん)を深めているのです。
クラシックバレエは強固な型の世界ですから、最初のころはモダンダンスの表現に入ろうとしても、やはりクラシックの常套的(じょうとうてき)なスタイルが表面に出てきていました。
それが彼女の表現を一定のワクの中に縛っているように見えました。
しかし、今回の「Flow」はとても自由なダンスになっていました。
とうとうと流れる時の流れが見えました。
彼女が表現したいと思っているそのことが、彼女の体に見えました。
つまり、舞踊家が自分の肉体を取り戻しているように見えました。
おそらくこのようにモダンの奥へ進むことで、クラシックの表現もそれだけ深く、それだけ幅広くなったのではないでしょうか。
彼女にとっては、大きな飛躍の舞台になったのではないかと思います。
1 向井華奈子「柘榴」
まず向井華奈子さんのソロダンス「柘榴(ざくろ)」。
裾に赤い染めを散らした衣装もめざましい効果となって、観客のぼくらに牙をむくような向井さんの強いダンスは、まるで舞台に血をぶちまけるようでした。
プログラムのコメントを読んだのはダンスが終わってからのことでしたが、そこにはボッテチェリの「柘榴の聖母」に触発されてこの作品を作ったと、そう説明がありました。
向井さんはその絵に受難と復活のビジョンを読んだのです。
なるほどなあ、と思いましたが、舞台の間、実はぼくは時代をぐんぐんさかのぼって、ギリシャ神話へと駆られていました。
柘榴は狂乱の神ディオニソスの流した血から生まれたという言い伝えがあるからです。
死の国に降りたペルセポネがそこで柘榴の実を食べて、それで地上に帰れなくなったという話もあります。
いずれにしても柘榴は生と死が交錯するとても危険な実なのです。
エロス(生)とタナトス(死)とサクレ(聖性)の果実だと、そう言っていいかもしれません。
ときにエキセントリックな動きで見る者を幻想へ誘う向井さんの独自のダンスは、その厚い重層構造をみごとに踊りきったと思います。
2 かじのり子「わたしに似た人」
さて、向井さんの作品が血をぶちまけたようなステージなら、次のこれは心臓をえぐり出すような舞台です。
かじのり子さんの「わたしに似た人」です。
舞台の中央に現われた舞踊家は、腰を屈め、クモのように身を低くして、じいいっと客席をにらみます。
暗い目で何かを捜している気配です。
これはコメントを幕間に読んでいましたから、そうか、とすぐに想像がつきました。
彼女は鏡を覗き込むように、客席の闇の中に自分の分身を探し求めているのです。
もっと正確に言えば、自分と自分の分身と自分に似たあの人の三つの像をそこに見つめているのです。
あの人というのは、二人の幼児をマンションの部屋に置き去りにして餓死するにまかせた、あの女性のことなのです。
舞踊家は、事件が明るみに出たあと、「わたしもあの人に似ているかもしれない」と感じた母親が大勢いることに大きな衝撃を受けたようです。
じつは舞踊家自身がすでに同じ感情を隠し持っていたからです。
隠し通したかったものが、多くの母親がそうなのだと知ったときから、隠し通せなくなったのです。
それが舞踊という表現に噴出することになったのです。
ならざるをえなかった、というのがたぶん本当なのでしょう。
舞踊家は、この作品のなかで繰り返し片方の目を手で塞いで踊ります。
恐るべき着想です。
塞がれた目の中にどんなに深い闇を見つめているか、それがぼくらにもまざまざと見えたのです。
ぼくもあの人に似ているかもしれない、そう思わないではいられなくなったのです。
3 灰谷留理子「Flow」
モダンダンスの身体表現の、とくに物理的な側面について興味深かったのが、「Flow」を踊った灰谷(はいや)留理子さんです。
灰谷さんはもともとクラシックバレエの舞踊家です。
バレリーナとして活動しながら、それと並行に藤田研究所に入門して、 モダンダンスにも研鑽(けんさん)を深めているのです。
クラシックバレエは強固な型の世界ですから、最初のころはモダンダンスの表現に入ろうとしても、やはりクラシックの常套的(じょうとうてき)なスタイルが表面に出てきていました。
それが彼女の表現を一定のワクの中に縛っているように見えました。
しかし、今回の「Flow」はとても自由なダンスになっていました。
とうとうと流れる時の流れが見えました。
彼女が表現したいと思っているそのことが、彼女の体に見えました。
つまり、舞踊家が自分の肉体を取り戻しているように見えました。
おそらくこのようにモダンの奥へ進むことで、クラシックの表現もそれだけ深く、それだけ幅広くなったのではないでしょうか。
彼女にとっては、大きな飛躍の舞台になったのではないかと思います。
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