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しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

三つの部屋 2021

2021-12-22 01:27:00 | 美術
神戸・長田のcity gallery 2320で3人の作家による「三つの部屋 2021」が開催されました(2021年12月4~19日)。


2階の展示室、松縄春香さんの作品は樹木の枝、あるいは枝分かれする毛細血管を思わせる繊細な造形。深い青と白のコントラストが美しい作品です。



同じく2階、森脇正奈さんは太極拳をモチーフにしたインスタレーション。色彩、画中の人物のポーズ、そしてその曼荼羅的な配置が、力強くも軽快なリズムを刻みます。肉体は立ち止まっていても、私たちの「身体」は躍動したとでもいうような、そんな不思議な感覚を残すのです。



モリン児さんは1階のフラットな展示室を最大限に使いカオス的空間を出現させました。頭のてっぺんに奇妙なアンテナを広げた胸像に自作のテルミンが接続され、ノイズを鳴らしつづけています。楽しくも乱雑をきわめたその世界の一方の壁には、どこかボッティチェリのヴィーナスを思わせる女性の柔和な横顔と、抱えるように伸びたその腕。そして反対側の壁には同じ女性の両脚が長く垂れています。願わくは私たちの放り込まれたこの救いがたく取っ散らかった世界が、それでもこうして慈悲深き女神にいだかれてあり、最後の一線の手前では救われんことを……ノイズにまぎれて漏れ聞こえてくるのはそんな切実な祈りの声でしょうか。
(t.y)


「俳句×美術/伊賀上野2019」の展覧会カタログ

2021-07-10 04:47:00 | 美術
「俳句×美術/伊賀上野2019」の展覧会カタログの美しさに見入ってしまいます。
この展覧会は、長野久人さんら9人と1グループの美術家が、現代の俳人たちの句、また松尾芭蕉の句にインスパイアされて制作した作品を展示するという企画です。
残念ながら私は拝見したことがないのですが、2015年のプレ展から以来、丹波篠山と伊賀上野で開催をつづけ、2019年の展覧会は伊賀上野、江戸時代の藩校跡である旧崇廣堂が会場となりました。



胎児をかたどった特異な立体作品で知られている長野さんは、木村和也さん、藤井直子さんの句とのコラボレーションです。
いずれも「骨」を詠んだ句。

木村和也さんの「白骨の六月きれいな雨がふる」。

長野さんは、この句に応じ、澄んだ水の底に小石と一緒に小動物の骨が横たわるテーブル状の作品を発表しています。
水は透明の樹脂によって表現され、そこに雨粒が降るようです、何とも美しい波紋が二つ、三つ、さざ波の輪を広げていますが、その底に完全な骨格を備えて沈む動物の骨は、本物の貂(テン)のものだといいます。長野さん自身のテキストに「道で事故に遭って死んだ貂を拾ってきて骨にしたもの」と。

骨となったその貂の姿はまるで、あの今にも羽ばたこうとする姿のまま、石というより時間に閉じ込められた始祖鳥の化石のようで、この小さな姿に、ただいまの時間に遥か太古の時間が重なり、それを透かしみせるようです。確かに生命の悠久の歴史のなかで、同じ数だけの死が堆積してきたのです。



長野さんのテキストに、またこうあります。

母は小学二年の時に死産が原因で亡くなった。六月だった。桶型の棺に薪を積み上げて焼いた。黒い炭の中の骨は妙に白い。

そのような境涯に置かれたとき、いったい私たちはそこでその死児を憎めばいいのでしょうか、憐れめばいいのでしょうか。
家電製品やあらゆる日用品に変化(へんげ)し、一体化する黄色い胎児のシリーズでみる者を仰天させてきた長野さんですが、あの増殖をつづける胎児たちの根底にはこのような悲しみの体験があったのでしょうか。もしそうだとすれば、それはひとつの、いえ、ふたつの喪のあいだに引き裂かれた仕事なのかもしれません。悲哀と滑稽、怒りと諦念、そんな様々の様相を同時に表わすような長野作品の複雑な相貌はそのような場所、そのような源から流れ出てくるものなのだろうかと、そんなことを考えさせられるのです。

「シュプリッターエコー Web版」の長野久人さんとアンドレイ・ヴェルホフツェフさんの2019年の2人展「世界の誕生」の紹介記事



カタログの編集は田中広幸さん(「俳句×美術/伊賀上野2019」実行委員長)、山田卓矢さん。デザインは山田卓矢さん、藪本絹美さん。
「深海にゆっくり届く箪笥かな」「翡翠や兄さん紙となっている」など印象的な小倉喜郎さんの句に、アクリルや磁器による作品で静かに寄り添う山下裕美子さんの作品のページもとても美しく。
(t.y)


ATSUKO SASAKI SOLO EXHIBITION 2021 灯影 ほかげ – 紡ぐ、繋ぐ

2021-06-20 17:42:00 | 美術
笹木敦子さんの作品が海の生き物をモチーフにしたものだということは聞いていた。
それで、海の生き物といえば……と、ギャラリー Space31(神戸、御影)への道すがら思い出していたのは、「目」の話。
生命の起こりは海からというのが定説だけれど、太古の昔、生命が海の底で目という器官を形づくったとき、それはわたしたちが「目」といってイメージする明確に像を結ぶカメラのようなものではなく、ただ明暗を感知する光のセンサーのようなものだったと。
旺盛な再生能力で知られる扁形動物のプラナリアが、ちょうどそんな目をもっているとか。
自分の目もまた、そんなセンサーの末裔、「見る」という行為は光の検知にすぎない、そう考えることがまさに、世界を少し違って見せてくれるようで、ある種の興奮を―――むしろある種の安らぎをもたらしてくれるようなのは、どうしてなのか。


ぼんやりそんなことを考えながらギャラリーに足を踏み入れたものだから、笹木さんの手製のフェルトで作られた彫刻作品の中心で、ひとつの眼球がこちらを見つめ返しているのを目にしたときは、ちょっとびっくりしてしまって。
作品のリストには「Felt sculptures sea anemone with glass eyes」。
「海のアネモネ」とは、イソギンチャクのこと。
こういう形のイソギンチャクがあるのかどうか、詳しくない。この生々しい眼球の存在はもちろん措くとして、尻尾を上げた猫のうしろ姿のようなもの(まさにそのお尻の穴のところに目玉がはめ込まれている)もあったり、愛嬌のあるデザインの作品が並ぶ。
素材は「100% raw wool」。笹木さんは「生の」羊毛から自分の手でフェルトを作り、それをオブジェやバッグへと成形していく。





展覧会は「灯影 ほかげ -紡ぐ、繋ぐ」と題されている。
ギャラリーのメインの展示室に並ぶのは、同じくフェルトで制作されたランプシェードの作品。そしてこちらもイソギンチャク、クラゲ、カイメン……そんな海の生き物たちの姿を模している。
過去の作品は赤や紫で彩られ、とてもカラフル。それがこのたびは、これが羊毛の地の色なのか、アイボリー単色で、その中にランプの灯がともっている。
これまでの刺激的な色彩の作品と対極的ともいえる静かな空気、というより静かな潮の流れが展示空間をただようような。


思えばこの灯りも、それ自身が光を放つ光源というよりは、外界からの光を反射して輝く目―――そして目というなら、それがその精妙をきわめた器官となる以前の、単なる光に対する感受性をもった細胞の集まり、「眼点」と呼ばれるものの位置を示しているのかもしれない。
いくつかのそんな反転が、確かに笹木作品にはあって。
陸上のものの海中のものへの反転。
柔らかいものの硬いものへの反転。
見られるものの見るものへの。


羊毛を手で圧し伸ばし、フェルトにし、それにまた形を与えていく作業に深く身を沈める中で、触れているはずのマテリアルにむしろ触れられ、と感覚する瞬間があることは想像がつく。あるいはそんな感覚がこのガラスの目玉の起源?
いずれにせよ、壁を押すということが同じ力で壁に押されることでもあるように、見るという行為が、また見られることであると告げているような、この目。





もし見ることが見られることであったとして、だけど、その視線の交わりは別々の意識の衝突という事態ではないだろう。
そもそも、聴く、匂うと同じで、見るという行為は大いに意識をはみ出している。
発生論的説明では、現在の私たちの顔に位置している器官の中で、何より重要なのは、口。
もちろん発声のためではなく、食べるため。
やがて口の周囲に種々の感覚器が整備され、捕食の条件をより有利なものにしていった。
そして脳もまた、そうした感覚器の情報処理のため、その近傍に形成された器官といわれる。
クラゲのように、脳をもたず、眼点で受け取った光刺激を直接筋肉に送る生き物もいる。


認知心理学でもいいし、ロボット工学でもいい、見るということは種々の部品、種々の情報処理によるメカニカルなプロセスと捉えられ、私たちもそんな話を納得して聞いている。
ただ、そんなセンサーやカメラとしての目と私たちの精神との関わりということになると、たぶんそれを想像的かつ具体的な仕方で表現するのが、芸術作品というものの領分。


なるほど、私たちはこんなふうに、同じ見るということを、私たちが見ているものとのあいだで分かち合うのかもしれない。
けれど、より注視すべきは、いったい何者とそれを分かち合っているのかということ。そこに作家や私たちのひそやかな欲望、そして希望が忍び込んでいる。
この、見ることの分かち合いをあわよくば梃子にして、いったいどちらの側に自分の視座を反転させようとするのか。
―――望むらくは、大地をたくましく駆ける獣の目でも、空たかくから鋭く獲物を狙う猛禽の目でもなく、彼ら海に潜むものの暗いまなざしの側に。
「生命の原点としての海」と作家自身が言う、その「原点」とはほかでもない、いまそこから出てきたばかりの非-生命の圏域と境を接する場所のことにちがいない。
複雑な器官の集積として、この地上に固く意志して生きる私たちからは、目もなく脳もなく、ほとんど機械、ほとんど死のようにさえ思われる彼ら、そんな彼らとして見る―――それはまた、ふるさとをのぞむようななつかしさで、その非-生命の国をまなざす目のこと。
この展示室にただよう、ついに誰のものともわからないそんな秘めやかな視線に、私たちの目が不意にかち合う。


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ATSUKO SASAKI SOLO EXHIBITION 2021 灯影 ほかげ – 紡ぐ、繋ぐ
2021.6.5 - 6.20 Space31(神戸市東灘区)

(t.y)


旗谷吉員展 美術史絵画

2020-10-19 01:34:00 | 美術
神戸・新長田のcity gallery 2320で旗谷吉員さんの個展「美術史絵画」が開催されています(2020年10月10日~10月25日)。



ボッティチェリ、クラーナハ、クールベ……ルネサンスから近代まで、西洋美術史上の名画を題材に、油彩そしてコラージュで描かれる≪創造的模写≫。



写真右はクラーナハ(父)「アダムとイヴ」の油彩による「模写」、左はやはりクラーナハの別の「アダムとイヴ」を題材としたコラージュ作品。
このポルノ雑誌を使ったコラージュを前に感じる胸躍る楽しさは何でしょう。ここには興味本位のエロティシズムには収まらない創造性あるいはオリジナリティをめぐる本質的な問いかけがあるようです。



そして今度の作品展の会場には、オトナ向け特別展示室「ピカソのエロス部屋」も…!(子供さんもスイスイ入っていましたが)。



会期は10月25日まで。水・木・金 休廊。
city gallery 2320のホームページはhttp://www.citygallery2320.com/WW/product.topnews.html

(takashi.y)


トラウマ展 みてないことへの寄り道

2020-10-05 00:59:00 | 美術
先日、美術家の高濱浩子さんがファシリテーターを務める「トラウマ展 みてないことへの寄り道」を西宮市のアクタ西宮でみました(東館2階中央ひろば、9/19~22)。



「“こころの体験”をアートで表現してみませんか」と障がい者福祉施設や保健所などで呼びかけ、2019年から9回のワークショップを開催。そこで参加者に自由に描いてもらったという絵が展示されていました。

虐待、あるいはより広く「マルトリートメント」(不適切な養育)の記憶、友人との死別など、子供の頃に受けた心の傷が投影された絵が多く並びます。
発達障がいや精神疾患による生きづらさ、精神科病棟での辛い体験を描いた絵も。

一枚一枚の絵に説明や自己紹介が付されていて、人生にはこんなにも多くの種類の悲しみがあるものかと改めて感じさせられます。
そして、降りかかったその悲しみがただの「一種類」であっても、はかり知れない傷の深さがその人を一生涯とらえてはなさないということがあります。



ですが、そうしてワークショップを通じて2枚目、3枚目と描くうちに明るいトーンの絵に変わっていく人がいるようでした。
また、高濱さんと会場で少しお話ができたのですが、「とても重たい展覧会です」と正直に感想をお伝えすると、「でもね、ピカピカの額に入れてもらって、皆さんにも見てもらえて、次の一歩へ踏み出せそうですと話している参加者の方もいるんですよ」と。

それはすばらしい話だなと思ってうかがっていたのですが、実は展覧会をみながらいちばん気がかりに感じていたのは、自分がこんな心の傷を他人に負わせてはいないだろうかということです。
そして後日、この展覧会をみた知人から、母親としてやはり同じことを考えたという感想を聞きました。
確かに、トラウマを与える可能性にはたらきかけるという意味でも、意義深い展覧会であるのでしょう。

✴  ✴  ✴  ✴  ✴


展覧会の主催は「こころアート表現★プロジェクト」。オイゲン・コウ博士(オーストラリア)の活動に着想を得た武庫川女子大学の大岡由佳准教授の呼びかけではじまったプロジェクトです。

第2回展示が12月に予定されています。
大本山 須磨寺 護摩堂 2020年12月4日(金)~7日(月) 10時~15時

トラウマ展のホームページ
https://www.jtraumainformed-tic.com/

(takashi.y)


こどもの頃の夢がかなう

2020-09-23 00:05:00 | 美術
小学生の頃は、江戸川乱歩の小説に登場する少年探偵団になるため、裏山に隠れ家を作ったり、家族にも内緒で、探偵団の必需品である七つ道具を作って宝物箱の中に貯めておいたりした。でも、どんなに頑張っても小説の世界の中に入ることはできなかった。この現実の体が本の中に入る方法はないものかと考えてみたが、ついにその壁は越えられなかった。
ところがである、つい先日訪れたギャラリーで私は長年の夢をかなえることになったのだ。



city gallery 2320 (神戸市長田区)で現在開催中の「ズガ・コーサクとクリ・エイト 二人展」である。略してズガクリは女子ユニット。2009年から段ボールなどの廃材を使って、どこかでみたことのある風景を作っている。(チラシ文面を一部引用)
前回、6月に開催された「非常口」(内容はこちらの記事をご覧ください)は、もとの部屋の形状が思い出せないくらい空間が作品で覆われた。そして今回現れたのは、街中を走るバスとバス停。普段、まったく意識せずにみているあれである。ところが、ギャラリーに足を踏み入れるや否や私は心の中で「あああー」と震えたのである。

壁には路上の景色が描かれ、ずっと先まで道路が続いている。バス停の時刻表や日除けのシェードは立体で創作され、目の前にはこれも立体で作られた発車間近の市バスの車体(後部)が停車している。しかもそれは壁に描かれた車体(前半分)と途切れることなく融合しているのだ。平面と立体が混在しているのである。部屋の天井や壁に、まるで市バスが閉じ込められたようにはまっているのだ。





もちろんこれらは段ボールや廃材に彩色し描かれたものである。しかし、奇妙な迫力をもってそこに「実在のもの」として存在しているのである。今や私は作品の中に、その一部となって、つまりバスに乗り込む乗客として立っている!

この震えるような感覚は、現地に行って体験してみる以外説明のしようがない。

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「ズガ・コーサクとクリ・エイト 二人展」
9月27日(日)まで(23日のみ閉廊)
city gallery 2320
神戸市長田区二葉町2丁目3-20
http://www.citygallery2320.com
※二階もぜひご覧いただきたい。
キヌガワ






上浦ヴィクトリア展(2020年9月14日~19日)

2020-09-20 22:14:00 | 美術
9月19日(土)、大阪・西天満のOギャラリーeyesにて開催中の上浦ヴィクトリアさんの個展に伺った。フライヤーを見て是非他の作品も見たいと思った次第だった。

会場に入るとすぐ、正面に配置された大きな絵が目に飛び込んで来る。「母の中であなたはまだ生まれたての子鹿」

草を食もうと屈んだ子鹿の身体から、突如伸び上がる空色かつ薔薇柄の首と女の子の頭部。触れれば少し硬い毛並みや体温まで感じられそうなほど写実的な子鹿と、非現実的な首と頭部のコラージュに思わず眩暈を覚える。いわゆるキメラというものか。頭部だけの女の子はフライヤーの子と同じなので上浦さんのお嬢様なのだろうとはすぐ分かったが、すると首の途中の白い犬は飼われているワンちゃんですか?と尋ねると、特に犬は飼っていないとの回答に再び眩暈を覚える。何故そこに犬を描かれたのか?理屈で考えるのは恐らく野暮というものなのだろうと思い、突き詰めるのは止めた。
絵をよく見ると、子供の落書きのような謎の生き物(?)が散りばめられるように描かれている。「これは…?」と尋ねると、まさしく子供(3歳)の絵を描き移したものらしい。現実と虚構とを混在させる作品に、日常の「当たり前さ」に凝り固まった精神を揺るがされる。夢に出て来そうな衝撃を覚えた。

次の大きな作品、「オオカミとスイミー」。

絵の中心に主題たる狼の横顔を据え、それを囲むように幾つもの作品が描かれている。複数の作品を一枚に纏めてしまったかのような印象。絵心の無い私からすると、どう考えればこのような作品が産み出せるのか皆目見当が付かない。上浦さんが仰るには「絵の6割方は頭の中でヴィジョンがひらめくんです。描き進めている内に、こう描いてみようと思ったりして広がっていく感じですね。」とのこと。
ところで、狼の下に描かれている白い紙のようなものは…?と訊くと、やはりお嬢様の絵を描き移したものらしい。

ともすれば子煩悩とも揶揄されかねない母の愛。二人目の出産後初の個展ともあって、誕生の喜びとすくすくと育つお嬢様への愛に溢れた個展となったのだろう。

さてフライヤーの作品「強くなくてもいい」。

この構図を一目見て、私は中世ヨーロッパで伝承されてきた刺繍によく使われる菱型の図案を思い出した。

菱型の天辺には大抵花が描かれている。すなわち女性器のモチーフであり、子孫繁栄や農作物の豊穣を意味するものらしい。上浦さんの作品は菱型ではなく円形とは言え、子供の絵が真ん中に配置されているところから誕生を意味しているのでしょうか、と遠慮気味に聞いてみたところ、そんな意味は無いとすぐに否定されてしまった。こじつけ過ぎるのは自分の悪い癖だ。ましてや女性に質問するべき内容では無かったかもしれない(遠慮気味に言ったにしても)。

それにしても、どの顔を見てもお嬢様は笑顔ではなくムッスリとむくれている。案外、わざと嫌がることを言ってむくれる娘のその表情を愛らしく感じられているのかもしれない。
後で上浦さんのプロフィールを調べたところ、「真面目にふざける」を制作主題としているとのこと。お茶目な方だ。

(アサオケンジ)



なまめかしい魂 ――小牧徳満展

2020-08-23 15:11:00 | 美術
小牧徳満さんの作品展「木霊は語る」(2020年8月13日~23日)を神戸・元町のGALLERY 301(ギャラリー サンマルイチ)でみました。



「木霊」は「こだま」。「霊・魂(たま)」と「玉」は同語源だそうですが、小牧さんはいろいろの木の枝から優しくもなまめかしい玉の形を彫り出していきます。

中空に横たえられた細枝も、切ってきた枝をそのまま飾ってるのかしらと思ったら、よくみると先端が丸く削り出されています。

しっかりとした枝から、頭を思わせる形が首を伸ばし、不思議なことに目としか思えない位置に二つ節がついている作品があります。まさにいま突然、目というものを与えられ、それをいっぱいに見開き、驚いた様子でそこから外界をのぞきこんでいるといった表情。

隠れていた魂が、それも形のないものとしてではなく、魂の器官というべきものとしてえぐり出され、露出させられている、とても触覚的な作品たちでした。



さて、驚きの表情で世界に目を見張っているその「木霊は語る」という作品。スモークチーズを連想したのですけれど、つややかな樹皮と、きめ細かでいかにも滑らかなその断面に、カリンの木というのはきれいなものなんですねと思わず尋ねました。そのときの、小牧さんの生き生きとした様子――

カリンの樹皮の独特の色合い、木材としての特徴について、好きで仕方ないというふうに話してくださいました。

作家というのは、まずもって素材そのものを偏愛する人々なのでしょう。



(takashi.y)


高濱浩子さんの「私書箱1284」

2020-08-15 00:52:00 | 美術
美術家・高濱浩子さんの作品シリーズ「私書箱1284」がギャラリー島田オンライン・ストア(https://gallery-shimada.stores.jp/)で公開・販売されています。


高濱さんは、これを、たとえ「大の」と強調しても、単に「旅好き」といっていいものか、ほとんど旅に生きているような方ですが、インドに留学をしたり、ガウディのサグラダファミリア教会の建設工事に携わる外尾悦郎氏に師事したりと、ダイナミックな経歴の持ち主です。


先日もフィリピンへの旅を綴ったエッセイが雑誌「コヨーテ」に掲載されたかと思えば、NHKテレビの人気番組「サラメシ」に出演。神戸の神社の宮守としての生活も紹介されました。


テレビで紹介されたのは、働きに出ていたときにお母様が作ってくれていたお弁当のスケッチにその時々の思いを書き添えた「お弁当日記」でした。これは先日、神戸新聞でも記事になりました(https://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/202007/0013551800.shtml)。


今回「ギャラリー島田オンライン・ストア」で公開されている「私書箱1284」は、貿易商だったお父様の元に届いた切手を使った絵のシリーズです。ハガキ大の作品の中に実際に切手が貼り付けられており、そこへ高濱さんの鮮やかでどこか神秘的なイメージが重ねられていきます。


この「私書箱1284」については、「シュプリッターエコー Web版」に山本忠勝が書いた2008年の記事があります。ぜひお読みください。
→「高濱浩子 無限流動」 http://splitterecho.web.fc2.com/critiques.html#10071


ギャラリー島田 オンライン・ストアより



赤木美奈展 饕餮

2020-08-08 03:43:00 | 美術
「饕餮」の読みは「とうてつ」。
中国の伝説上の怪物の名です。
あらゆるものを貪り食う悪神だったのが、いつか災いも喰らう魔除けの役割も持つようになったそうで、このコロナ禍の世にこそ「描かねばならない画題だ」と赤木さんは書きます。



正体不明の、めいめいの境目も判然としない生き物、植物、そして作家の偏愛する粘菌がひしめきあう画面からは、むしろ死の臭いが濃厚に立ちのぼってきます。
画廊のオーナーによると、山野で拾った動物の骨を挽いて混ぜた絵の具が使われているのだとか。
実際、骨そのものに彩色した作品も展示されているのです。



だとしても、これは死の爆発的繁茂。
その筆致は力強く、ここでなされているのは死と生とがないまぜになった混沌のエネルギーの探究です。
蛆虫に、ウィルスに、私たちもまた食われるものであるということを否応なく思い出させ、喰らい喰らわれ、全体としてただとめどなく続いていく怪物じみた生命というもののイメージが、見る者に迫ってきます。

「赤木美奈展 饕餮」は神戸・元町の歩歩琳堂(ぶぶりんどう)画廊で8月12日(水)まで開催。木・金曜日は定休。

歩歩琳堂画廊のFacebook https://m.facebook.com/buburindou/
電話 078-321-1154

(takashi.y)