■歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 注目を浴びても浴びなくても私の書いた物には恥ずかしい物は無い
『斬(ざん)』:時に自分の記事が必要以上に話題にされるのは恥ずかしいことなのかもしれないに言及いただいたのですが、言及返しというか、想った事をあれこれと。
その時に、自分の書いた記事に自信と誇りを持っていたとしても、出会った記事には、直感で「負けた」って感じてしまった場合ってのを想定したわけですよ。
自分の書いたモノに堂々としたいってのはあるんだけど、毎回毎回、そんな記事は書けないですよ。精々2、3ヶ月に1つだな、オレの場合は。それは目次で、自己評価つけてるところからも分かるように、自分が本当に満足する五つ星なんて、年に何回も無いんですよね。また、それが、世間での評価とは必ずしも一致しないし。それと「自分が書いた物には恥ずかしい物は無いと言い切る誇りを私は持ちたい。」ってのは、賛成。誇りとまではいかなくても、そういった気持ちではいたいですね。
で、話が前後するんだけど、自信を持った記事が、Web でも受け入れられて注目されたときに、もし上記で書いたような「負けた」と感じる記事に出会ってしまったらってのを考えたんですよ。これは、他者評価ではなくって自己評価での視点。つまり、自分が閲覧者視点で観て、自分の記事と読み比べた場合にという意味においてです。
閲覧者視点では、こっちの記事のがもっと取り上げられて注目されてしかるべきでは無いだろうか?って思ってしまう場合もあるんじゃないかと。そうすると、記事にも書いたように、恥ずかしいと感じないだろうかって話なんです。自負があるからこそ、そこに生まれる羞恥。
だから、この性格を直すよりも、この性格を言葉は悪いけど利用するというか、上手に付き合っていく方法を会得すべく努力するって方向に行きたいですね。それには、ブログでこうして書くってのもその一部なんですよね。
[参考]
・デジモノに埋もれる日々: 情報をめぐるポジティブ・ループ - 関係と信頼という名の財産
[TB:歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 注目を浴びても浴びなくても私の書いた物には恥ずかしい物は無い]
『斬(ざん)』:時に自分の記事が必要以上に話題にされるのは恥ずかしいことなのかもしれないに言及いただいたのですが、言及返しというか、想った事をあれこれと。
運が良い事も込みでその記事は注目されるに値するものなのだという考え方が私は好きだ。もっと自分の書いた物に対して堂々として欲しいものだな。自分が書いた物には恥ずかしい物は無いと言い切る誇りを私は持ちたい。うーん、オレはそれを運とは思えないんだよね。確かに運が作用する場合も否定はしないけどさ。どちらかというと、ポジションとか立ち居地みたいなものが左右されるでしょ。大手(中堅)個人ニュースサイターやアルファクリッパーなんて呼ばれてる人達の巡回先に居るか居ないかでも変わってくるわけで…… で、そういったところから普段注目されないところでも、淡々と良質な記事を書き上げていて、それにふと何かの偶然で巡り合ってしまった時ってのを想像したわけですよ、あの記事は。
歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 注目を浴びても浴びなくても私の書いた物には恥ずかしい物は無い
その時に、自分の書いた記事に自信と誇りを持っていたとしても、出会った記事には、直感で「負けた」って感じてしまった場合ってのを想定したわけですよ。
自分の書いたモノに堂々としたいってのはあるんだけど、毎回毎回、そんな記事は書けないですよ。精々2、3ヶ月に1つだな、オレの場合は。それは目次で、自己評価つけてるところからも分かるように、自分が本当に満足する五つ星なんて、年に何回も無いんですよね。また、それが、世間での評価とは必ずしも一致しないし。それと「自分が書いた物には恥ずかしい物は無いと言い切る誇りを私は持ちたい。」ってのは、賛成。誇りとまではいかなくても、そういった気持ちではいたいですね。
で、話が前後するんだけど、自信を持った記事が、Web でも受け入れられて注目されたときに、もし上記で書いたような「負けた」と感じる記事に出会ってしまったらってのを考えたんですよ。これは、他者評価ではなくって自己評価での視点。つまり、自分が閲覧者視点で観て、自分の記事と読み比べた場合にという意味においてです。
閲覧者視点では、こっちの記事のがもっと取り上げられて注目されてしかるべきでは無いだろうか?って思ってしまう場合もあるんじゃないかと。そうすると、記事にも書いたように、恥ずかしいと感じないだろうかって話なんです。自負があるからこそ、そこに生まれる羞恥。
性格だから仕方ない、か。それは言い訳でしかないよな。出来ればそういった恥ずかしく思う気持ちを何とか無くしたいと思わないものなのだろうか。ただ、オレはこの羞恥の感覚っては、変えたいとは思わないんですよね。むしろ個性であり、いい面もある(総合的には悪い面のほうが多いんだけどね)。言及された記事がこうして言及されるのも、それゆえの理由な訳でして。つまり、ブログにおいては、オレにとって必要な感性なんですよね。そして、あの記事では嫌だとは書いて無いわけで、オレの記事を読んでみてそう思う人は居ないのかな?って問いなんですよね。
歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 注目を浴びても浴びなくても私の書いた物には恥ずかしい物は無い
だから、この性格を直すよりも、この性格を言葉は悪いけど利用するというか、上手に付き合っていく方法を会得すべく努力するって方向に行きたいですね。それには、ブログでこうして書くってのもその一部なんですよね。
[参考]
・デジモノに埋もれる日々: 情報をめぐるポジティブ・ループ - 関係と信頼という名の財産
[TB:歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 注目を浴びても浴びなくても私の書いた物には恥ずかしい物は無い]
最後のほうの部分に書いてあること、なんかすごくわかるような気もします。そんな、性格は簡単に書き換えられないよねw。楽しく乗りこなしたいよね、自分もみんなも、とか思う
ブログを書くことで、幾分理解されたり、時にはアドバイスやヒントを見つけることができればそれもまた有効かと。好きではないけど、慰めあいも時にあってもいいのではとね。そればっかだと成長無いからダメだけどさ。