読書の記録

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黒山もこもこ、抜けたら荒野

2008年04月21日 | 社会学・現代文化
黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望----水無田気流----新書

 バブルと崩壊を中軸線とした昭和から平成への日本社会の変容を、個人的視点から語ったものを去年あたりからよく読むようにしている。先に紹介した「郊外の社会学」は、郊外の観察と自称からの昭和-平成の変容だし、「オタクは既に死んでいる」は、「オタク」の成長と肥大と拡散だ。また、去年読んだものでは、予備校講師が書いた栗田哲也「何が時代を動かすのか」が、若者を長年指導してきた立場から、社会を企業と国家の進出と退場という点で考察しており、非常に興味深かった。
 要するに、方丈記を待つまでもなく真理として「時代は変わる」のだ。それは、客観的で定量的な様々な経済指標を見ても明らかなのだ。だが、数値やグラフの下には、それぞれ、その時代を生きた人がいて、その人の生きてきた人生の半径と及ぶ限りの知識で、時代の変容を観察し体感し考察し書きとめている。それらを俯瞰して読んでいくことで、巨大な時代のうねりを、もう少し皮膚実感で把握したいと思うのである。

 で、本書は1970年に首都圏近郊で生まれた「女流詩人」の視点から描く時代論だ。詩心のある人は、時代の変化の兆しやひずみに病的に鋭敏だったりするので、読む前から非常に興味深かった(果たして新書に相応しいかという疑問はあったが最近の新書はなんでもありで、ほとんど書き下ろし文庫本と同じノリなのでよしとする)。
 「時代は変わる」ことの不条理さが本書の主眼である。変わるといっても、すべての人間・制度・価値観・風俗が一挙に大変身するわけではなく、また全ての要素が同じスピードで同程度のグラデーションで変容していくわけでもない。前の時代を引きずっているもの、さっさと新時代に変わってしまったもの、変化中ものと、それぞれが少しずつずれながら同居している。そして、それらの間に齟齬や軋轢が生まれる。で、こんなとき、その対立で負けるのは必ず「力の無いもの」である。そして「力の無いもの」の多くは、その直前の時代にあって「弱い」ものであることが圧倒的に多い。で、それって具体的には「若者」であったり「女性」であったりする。「若い女性こそ時代をリードする最先端の主役!」なんてのは、企業が、自分の商品を買ってもらうための褒め殺しであって、実は何の力もない、といったら言い過ぎか(このあたりは「何が時代を動かすのか」が慧眼)。
 だから構造的な変容がくると途端に弱者に転落する。本書はその「若い女性」であった著者の、世の中から扱われる無情さと不条理さが徹底的に語られる。親からも学校からも企業からも弱者であり続けた私語りは、なまじ文章が上手なだけに思わず笑ってしまえる軽妙さをかもし出しているが、その実はかなりこれ深刻な話である。そして、弱者となった「若い女性」の「BL(ボーイズラブ)志向」をアナーキー的反撃と見る。
 にしても「私の個人主義」から100年。「個人の私主義」へと閉じこもってしまう以外に救いが見つからないこれはどうしたものか。

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