読書の記録

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Z世代的価値観

2024年01月02日 | 社会学・現代文化

Z世代的価値観

竹田ダニエル
講談社

 

 本書の隅々の情報から察するに、どうやら、著者の前作「世界と私のAtoZ」がセンセーショナルだったらしい。本書はその続編のようだ。くだんの書を僕は読んでいないことを先にお断りしておきます。著者はアメリカ在住の二十代日本人とのこと。本書はアメリカにみるZ世代の洞察だ。

 ここ数年言われている「Z世代」。いままでの世代との隔絶があるとか、社会問題に敏感とか、環境保護意識がべらぼーに高いとか、SNSネイティブとか、9時5時の仕事さえ耐えられないとか、代行事業者に退職を伝えさせるとかいろいろ言われているが、僕は半分都市伝説だという疑いが晴れない。いつの時代だって若者はいままでと違うと言われてきたし、大人のつくった社会に異を唱えてきたのはミレニアム世代もさとり世代もゆとり世代も同様である。
 むしろ「こいつらは●●世代だからしょうがない」という免罪符をつくってことなかれにしているのは上の世代なのではないかとさえ思う。一時期、海外旅行離れアルコール離れ恋愛離れと、××離れがまことしやかに言われていたが、離れているのは若者ではなくて、既存の価値観が若者たちから剥離してしているのだ、という見方を持ったほうがよいのではないか。どうあったって世の中の流れはとまらないのである。

 ・・と、なかば自分を律して戒める意味も含めて僕はそう思おうとしてきた。

 それでも、我が勤務先に入社してくるここ数年の新入社員をみているとかなーり勝手が違うことを白状する。3年くらいまではなんとか理解と共感の糸口を見つけてきたつもりだが、去年と今年に続けて我が部署に配属された2人の新人とはいまだわかりあえていないきらいがある。ちなみにどちらも男性だ。なぜかそれまで5年連続で女性の新人配属が続いていたのだが、世代のせいなのか性別のせいなのか、女性のほうがなんというかうまく折り合いつけるというか上手に立ち回るというか良くも悪くも賢い、つまり彼女たちはなんだかんだで他の社員や会社のしきたりやビジネス作法とうまくやっていくのに対し、この2年連続の男性新人にはあっけにとられっぱなしである。

 どういうことかというと、彼らは自分たちの出すボキャブラリーやアウトプットや立ち振る舞いに疑いも不安もない。その自己紹介の仕方から飲み会の清算の仕方、経費の申請の仕方、取引先への会話の言葉選び、そこに場違いや勘違いがあったことを(優しく)指摘してみても、すみませんの一言もない。今までそれを覚える機会がなかった以上べつに知らないことは罪でも恥でもなく、こっちもそれを批難しているつもりも弁明を求めるつもりも一切なく、本気で謝罪を求めているわけだってもちろんないのだけれど、その場を潤滑油的に流す一言の「すみません」や「気をつけます」が素で出てこない風をみると、本当にこの人たちはピュアに育ってきたんだなあと、むしろある種の感慨がある。それ以前の5人の女性の新人のほうが、その手のちょっとした「やらかし」をしたあとの対処、立ち振る舞いがやはり一枚上手なのである。男性だ女性だということ自体が時代錯誤なのはよーくわかっているのだけれど、ジェンダー的な由来が彼女たちをしてこのような折り合いをつけるスキルをつくったのかと思わないでもない。男性はそのぶん摩擦なくすくすく育ってきたのかなどと考える。

 というわけで、ようやく本書の話である。

 本書の主張では、そもそも日本でいうところのZ世代は、企業がマーケティング活動の一貫としてとりいれた方便以外のものではなくて、何も本質を言い表してはいないという。「Z世代」というのはアメリカで発現された「現象」なのだ。GAFAにおける生活プラットフォームの上で、ブラック・ライブズ・マタ―に象徴された人種問題、トランプ政権でアジェンダとなった格差問題や移民問題、銃の乱射事件、気候変動そしてコロナ禍といったものをティーンエイジに目の当たりに経験することが、アメリカにおける2000年代生まれの若者たちに何を精神形成させたかという話なのである。

 その結果、アメリカのZ世代にみられるのは、強力な自己肯定感と自己有能感への渇望、とでもいうべきものになった。これからの未来において社会も政府も企業もオトナも信用できない、すなわち冷戦後のアメリカがつきつめた民主主義と資本主義のレジームへの疑心があり、頼れるのは自分たちの嗅覚という問題意識の中で、今の自分の採択は大丈夫、という安心と手ごたえをとにかく欲することとなった。この自愛を求める手段としてSNS、とくにこのときにタイミングよく出てきたTiktokが彼らの精神土壌のプラットフォームになった、というのが本書の筋書きである。

 そういうことであれば、日本の「Z世代」の原体験はアメリカとは相違がある。日本の場合は、SDGsに代表される社会課題的なものへの関心はむしろ外挿的に後付けされたもので、どちらかというと、拡大するジニ係数と長く続いた安倍政権と少子高齢化という社会ベースに、Instagram・twitterそしてTiktokという匿名ないし半匿名の情報インフラ、そしてコロナ禍によってつくられた世代だろう。「Z世代」はコロナ以前から言われていたが、本当に特異な世代と思えるのは、やはり多感かつ精神形成に重要な十代をコロナ禍にやられてリモートで過ごさざるを得なかった彼らであろうとは思う。

 これらがどういう精神形成をつくりあげたかはいくらでも深読みができそうだが、結果的に彼らは「いやに現在の自分のやり方に自信を持っている」という形となって表れているということだ。いつの時代のどの国の若者もそうじゃないかとも思うのだが、ただ彼らの立ち振る舞いや言動をみているとそこに「ぬぐえない不安の裏返し」というのがどうしても見て取れてしまうのである。今やっている自分の言動は正しい、と自信を持っているというよりはしがみついているといったほうが良いか。本書におけるアメリカのZ世代の「自己肯定感への渇望」もこういうことなのでは、と思う。ただ、アメリカのZ世代が、社会への「不信」を背景にそこに新たな「連帯」や「社会変革」を見つけようとする外向きのエネルギーを感じるのに対し、日本のそれは単に「不安」が転じて自分が思っている正しさにしがみついている、という防衛本能的なものをどうしても感じてしまうのである。

 これが日本のZ世代なのだ、という風にステレオタイプに決めつけるのはよくない。一人一人の個性の差異は年代や性別の差異よりも大きい、というのがダイバーシティの原則論である。ただ、この世代に確かに共通しているのは学生時代がコロナ禍によるリモートだったということはかなり考慮したほうがよいとは思っている。限られた学生期間を数年にわたって自宅からのリモートで過ごし、通学が復帰しても学友はみんなマスク姿ということがどういうことになるのかというのは、近代史上に初めて現れた自然実験とはいえよう。その特異な経験が彼ら彼女らにどのような自信と不安を植え付けたのかを心底から共有して理解するのは他世代にはもはや不可能である。

 ただ、我が部署に配属された新人たちをみるに思うのは、「ダニエル=クルーガー効果」あるいは「ジョハリの窓」などに代表される「無知の知」「無知の無知」に無頓着なのは己れ自身のリスクをむしろ高めるのではないかという老婆心である。信じられるのは自分だけ、なのは結構なのだが、自分自身というのは案外にそう信じられるものではないよ、というのは僕自身の黒歴史もさりながら歴史が証明していることでもある。このあたりのニュアンスを彼らに気付いてもらえる日がいつかくればいいと思っているのだけど、さてどうしたものか。


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