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地形の思想史

2020年01月11日 | 社会学・現代文化

地形の思想史

原武史
角川書店


 本書は、タイトルにあるように「地形」がポイントである。岬、峠、島、高台など7つの特徴的な地形をもつ地域の訪問記だ。

 本書の根底にあるのは、地形が直接的に作用して、あるいは間接的に影響して、その地の人文地理環境に因果をつくりあげるという見立てだ。古くは和辻哲郎の「風土」、近年ではジャレド・ダイアモンドを想起するが、近代日本思想においてもそれは現れる。本書では日本の近現代思想にまつわる事件やエピソードを持つ地域ーー大菩薩峠(赤軍派のクーデター未遂事件の現場)や三浦半島(ヤマトタケルとオトタチバナの伝説を持つ軍都)や富士山麓(新興宗教の集積地)などを訪れる。近代思想そのものがこの特有の地形に何を投げかけたのか、あるいはこの地形が近代思想の何を誘い込んだのかを、現地を訪れながら考えていく。このあたりの著者の手腕はたいへんに面白い。政治近代思想史を専門とする著者の独壇場といった感がある。

 いずれの章も示唆に富んでいるが、とくに面白いと思ったのは東京湾を挟む西の三浦半島と東の房総半島の対比だ。
 この地にはヤマトタケルの東征伝説がある。ヤマトタケルの一行は、西方から三浦半島までやってくると東京湾の入り口、すなわち浦賀水道を船で渡って対岸の房総半島に上陸したとされる。古事記や日本書紀の記述によれば浦賀水道は流れが速くて渡るのが困難とされた。すると、ヤマトタケルにこれまで連れ添ってやってきた妻のオトタチバナが、ここで海を鎮めるためにいけにえとなって入水する。ヤマトタケルは嘆き悲しむも、海は凪いで一行は無事に対岸の房総半島にたどり着く。

 この記紀のエピソードに対して近代日本思想のステークホルダーは、素朴に言えば感銘を受け、うがった言い方をすれば利用ないし活用したわけである。オトタチバナの犠牲的行為は夫ヤマトタケルへの忠誠心すなわち「妻の鑑」であり、皇室への忠誠心である「日本人の鑑」なのであった。
 とくに西側の三浦半島ーー横須賀海軍基地や葉山御用邸があるーーにおいてはヤマトタケルをまつる神社があり、オトタチバナも一緒にまつられる。明治天皇の内親王や大正天皇の皇后がオトタチバナによせて詠んだ歌が石碑に彫られ、現存している。これらの歌の内容にも先の価値観が見え隠れすることを著者は指摘している。(一方で現上皇后美智子がある講演でオトタチバナに触れた際は、戦後観のある解釈を述べたことも指摘している。)要するに三浦半島における神社はヤマトタケルとオトタチバナという記紀の世界観と歴史観に根拠をおいており、近代日本もそれになぞらえたのである。
 記紀の記述にしたがえば、対岸の房総半島にわたったのはヤマトタケルのみである。ところが房総半島ではヤマトタケルはスルーされ、オトタチバナをまつる神社や史跡が実に多いのだ。房総半島にはオトタチバナが身につけていたとされる櫛や袖が海岸に流れ着いた。房総半島の神社はそれらをまつるのである。オトタチバナのことは地名として現代も生きている。「袖ヶ浦市」の、この「袖」とはオトタチバナの袖のことである。「富津」というのは“古い布が流れた着いた津”の意であり、この古い布とはオトタチバナが身に着けていた布を指すらしい。
 ここにみられオトタチバナの扱いは「ヤマトタケルの忠実な妻」ではなく、海に没したひとりの乙女なのだ。ヤマトタケルの存在感が消えたことによって「ヤマトタケルのために犠牲になった」という文脈がなくなり、記紀の記述から独立した、ひとりの聖なる乙女が現れるのだ。実際に上陸したのはヤマトタケルだけなのにこのような逆転現象が起こるのである。


 東京湾を挟む三浦半島と房総半島の章(「湾」の章)は、記紀の神話とそれにあずかった近代思想の話であり、現代においては過去の名残りとでも言うべきものだろう。しかし、今なお深刻な影を落とす地域もある。本書の中でも大きな課題を投げつけられた感があるのが、「島」の章と「半島」の章だ。

 「島」では岡山県の長島と、広島県の似島が出てくる。
 長島は、ハンセン病患者の隔離施設「長島愛生園」があったところーー過去形ではない。この施設はまだある。回復者の中には、国の長期間の政策によってこの島で高齢化して社会復帰の道を閉ざされ、故郷に帰っても生活の術がないためにまだここにとどまっている者がいるのだーーで、島の隔離性を徹底的に利用した。この島に本土から橋がかかったのはずいぶん最近なのである。それまでは船で渡るしかなかった。(患者用と従業員や家族用とで桟橋を分けていた)。
 広島県の似島は、大本営が設置された軍都広島に付随する形で防疫のための検疫所が設けられた島で、外地から帰還した兵士たちはここで検疫をうけてから本土に上陸した。いわば水際阻止のための島だった。そして検疫所の設備があることがその後の島の歴史を決めた。広島に原爆が投下されたとき、大量の被ばく負傷者が運び込まれた。そのまた多くがここで亡くなった。

 これら島はその島の隔絶性ゆえに、現代なお訪れる人は限られ、当時の気配が色濃く残る。広島市内にある原爆ドームを中心とした平和記念公園は立派に整備され、世界的にも知られて訪問者が訪れる。誤解を恐れずに言うと観光地化されている。しかし、この似島はいまだ当時の記憶がむき出しのままひっそりとしているのである。

 また、実はこの2つの島は、皇室にもからんでくる。日本近代思想において皇室は切っても切れない関係があるが、皇室の慈愛や浄穢の思想が、事と次第では図らずも残酷な結論になる空恐ろしさがここでは見える。ある意味、本書の白眉とも呼べる部分なので詳細は控えるが、聖武天皇皇后の光明皇后あたりまでたぐることができそうな話である。


 もうひとつ重さをつきつけるのが、最終章の「半島」だ。舞台は鹿児島県の大隅半島である。
 この地はかつて尚武主義で知られた薩摩藩の地であり、戦前には海軍基地の鹿屋飛行場があった。ここから多くの特攻隊が飛び立った(ちなみに有名な知覧飛行場は薩摩半島にある)。
 戦後はここから二階堂進と山中貞則という二人の大物自民党議員が出て鹿児島3区の議席を30年近く確保していた。

 そういう土地柄である。これらの因果から、この地は男尊女卑と封建主義の強い、極めて保守的な風土となった。
 著者はこの地を訪れ、鹿屋飛行場の歴史館や、二人の議員の記念館を訪れ、2019年に市議会議員になった女性と面会する。この女性はなんとこの地において初めての女性の市議会議員なのであった。去年までこの地、垂水市には女性議員はいなかったのである。もちろん全国唯一であった。
 そして、著者がこの地で得た見聞を読むに、大隅半島の保守的な気風はちょっとやそっとでは解けない印象を強く受ける。ようやく女性議員が登場したわけだが、くだんの女性議員とはべつに他の女性候補もいてこちらは落選したのだそうである。そして、この二人の女性の選挙戦術をみるに、ここに根深い闇をみる。(詳細は本書を参照されたし)
 一方で大隅半島は過疎化の一途にある。大物議員も亡くなり、JR路線も次々と廃止された。こうしてこの半島の生活空間の孤立化と、外部の血が入らないことによる生活文化の濃縮化をみるのである。


 このように地形のはざまに凝固するように近代思想の残滓がこびりついているのを見つめるのが本書である。

 それにしても。著者の他の著作でも言えることなのだけれど、全体的に閉塞感が漂う。ありていにいうと重くて暗い。
 著者自身の性格によるものといってしまえばそれまでだが、やはり“地形や環境がそこに生きる人の思想や行動をしばっていく”という立脚点によるところが大きいように思える。その思想や行動はイノベーティブなこともあるが(本書でも取り上げられている、明治の東京は多摩地方で生み出された五日市私擬憲法なんかはそうであろう)、一方で、地形や環境は人間の罪や闇をつくりだすこともある。施政者はそんな人間性のスキをついて慣習や制度をつくっていくということをはからずも示しているように思う。


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