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スヌーピーがいたアメリカ   『ピーナッツ』で読みとく現代史

2023年11月20日 | 社会学・現代文化
スヌーピーがいたアメリカ   『ピーナッツ』で読みとく現代史
 
ボール・ブレイク・スコット  訳:今井亮
慶應義塾大学出版会
 
 スヌーピーの原作マンガシリーズ「Peanut(ピーナッツ)」については、一度こちらで丁寧に紹介している。僕は10代という重要な精神形成の時期に、寄り添うようにピーナッツのマンガに接していたので、このマンガは自分の心身に計り知れない影響を与えている自覚がある。
 
 といっても、僕は純然たる日本人であり、アメリカはもとより海外で生活などしたことがない。ピーナッツは、アメリカの子どもたちの文化や社会がどんなものであるかを見せてくれる窓ではあったけど、マンガの世界観そのものは、サザエさんやドラえもんがそうであったように、人畜無害で中庸な日常系マンガだという先入観があった。 
 
 必ずしもそうではなかったのだ、というのが本書「スヌーピーがいたアメリカ  『ピーナッツ』で読みとく現代史」である。
 
 作者のチャールズ・シュルツ自身は穏当なスタンスの持ち主ではあったが、そもそもアメリカは保守とリベラルのふり幅が相当に広い。シュルツは西海岸に住むプロテスタントの白人で、第2次世界大戦時は徴兵によってヨーロッパ戦線に赴いている。このような出自や経験によるアンコンシャスバイアスは当然あっただろう。さらに、ピーナッツシリーズは戦後半世紀に渡ってアメリカ史と並走し、全土にわたって新聞を通じて毎日配信し続けられた国民的マンガである。相当な影響力を持っていたために、政府や企業や市民団体はこれを利用しようとした。読者から送り寄せられる意見や感想も盛んだった。ピーナッツシリーズは、シュルツの自覚無自覚関わらず、戦後アメリカの社会思想と呼応しないわけにはいかなかったのだ。
 
 僕は、ピーナッツシリーズの連載期間のうち、50年代後半から70年代前半くらいまでの期間を「前期:内省の時代」および「中期:再構築の時代」と勝手に見立てている(詳細はこちら)。僕にはアメリカ史の知識なんてないから、この区分はもっぱら登場人物や作風の変化から主観的にそう感じとっただけなのだが、この時期の特徴としては、思索的な内容の多さと、ちょっとしたセンチメンタルさが醸し出されていることにあり、時として晦渋な印象を与えるものだった。チャーリーブラウンやライナスは世の中を憂いたり、未来に不安を感じたりする会話をしばしば行う。スヌーピーの犬小屋が高速道路を建設するために立ち退きにあったり、ルーシーの一家が引越しによって町を去るようなエピソードがあったりする。
 本書「スヌーピーがいたアメリカ」を読んで、それが戦後アメリカの様々なパラダイムシフトと同時代の表裏一体な関係であったことを知る。公民権運動、ベトナム戦争、東西冷戦と宇宙開発および核開発競争、女性解放、成長の限界。これらがアメリカ社会で取り出され、議論され、衝突していた。黒人のキャラクターであるフランクリンが海水浴場で初登場したのも、スヌーピーが第1次世界大戦の飛行士に扮した撃墜王シリーズも、ルーシーが精神分析スタンドを開業させたことも、サンダル履きでスポーツ万能なペパミントパティが登場したのも、そんな社会背景のインパクトと、作者シュルツのメッセージとして世に放たれたものだったのだ。スヌーピーの犬小屋が高速道路建設のために破壊されそうになったのは、当時のスーパーハイウェイ計画を反映してのことだし、ルーシーの家の引越しは、経済圏がどんどん広域化していった当時の世相とつながっている。
 僕が50年代後半から70年代前半のピーナッツシリーズに感じた「渋さ」の正体は、当時のアメリカ社会の光と影だったのである。
 
 
 ところで、僕の勝手な区分では、70年代後半以降のピーナッツシリーズは「後期:平和の時代」「晩期:解放の時代」と見立てている。先のような「渋さ」が薄れ、毒抜きされたかのようにマンガチックになっていった。一般的にイメージされるスヌーピーやチャーリーブラウンの世界に近い、と言ってよいかもしれない。もっぱらキャラクターの個性に頼った人畜無害な話が主になり、こと80年代後半からの晩期にはそれが顕著になる。
 本書で書かれる「『ピーナッツ』で読みとく現代史」でも、扱っている時代はもっぱら50年代の公民権運動や東西冷戦から、70年代までの女性解放運動や環境問題との関連までであ80年代以降の考察は皆無といってよい。そしてエピローグの章では、ピーナッツは次第に同時代性を失っていったとも指摘している。
 
 なぜ、ピーナッツは政治色が薄れていったのか。ここからは僕の想像である。もしもピーナッツがアメリカ社会の世相や問題意識に敏感に呼応していたのだとすると、80年代後半以降の微温化は、東西冷戦終結によってアメリカ社会に張りつめていた空気が緩んだことの現れとも言えるだろう。アメリカはここからパクスアメリカーナと情報スーパーハイウェイの時代になっていく。
 また、シュルツ氏自身の心境の変化も多いにあったに違いない。晩期のピーナッツシリーズは、確かに不明な点が多いが、いま改めて読み返すと「愛」にまつわる話が増えていった印象もある。片思いや親愛や友愛はピーナッツシリーズでは定番ではあったけれど、こと晩期においてはチャーリブラウンやスヌーピーたちを惑わせた女性キャラクターーリディア、ペギー・ジーン、エミリー、さらにはスヌーピーのママ、そして永遠の美少女「赤毛の女の子」などーが続々登場した。同時代を離れて、より普遍的な「愛」に傾注したのが晩年のシュルツの境地だったのだろうかなどと想像する。
 

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