読書の記録

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ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

2019年11月25日 | ノンフィクション
ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
 
ブレイディみかこ
新潮社
 
 文庫本化されたら読もうと思っていたら「本屋大賞」(ノンフィクション部門)までとってしまったので、敬意を表して単行本を買ってみた。
 
 人種差別・性差別・階級差別・宗教差別・少数派差別・・・ 人間というのは油断すると差別に走ってしまうものらしい。差別行為は自分自身が「安全」であるという気分を自己確認できる行為でもあるからだ。したがって自分に対しての不安が高じれば高じるほど差別も激しくなる。トランプ大統領を生んだ背景も、ブレクジットの背景も。そして日本のさまざまな社会現象も、これと無縁ではないように思う。
 いろんな人がいる社会という話になると「多様性」という言葉が出てくる。「多様性」というキーワードが人口に膾炙するようになって久しいが、「多様性」だけで満足してほっておくといずれ差別や排他や蔑視が生まれる。大事なのは「多様性を健全なまま維持するマネジメント」なのである。どうして「多様性」はなかなか難しい。むしろ人間の本能としては回避したくなるものなのではないかと思う。日本人は特にそうなのかなと僕は思っていたのだが、本書を読んで日本に限らないことを知った。
 だいたい多様性に揉まれているという点でいえば、イギリスは日本よりはるかにそうだろう。日本人妻とアイルランド人夫のあいだに生まれた一人っ子の息子君が通う公立中学校は、圧倒的に白人が多いがアジア系もアフリカ系もいる(この息子君は見た目は「イエロー」らしい)。生粋のイギリス生まれもいるけれど、移民の出が圧倒的に多い。東欧からの移民もいれば中東や中米からの移民もいる。経済的にはミドルクラスもいれば学校の制服の修繕はおろか食費にも欠く貧困層もいる。保護者のありようにいたっては父と母の両方がいるのもいれば、シングルもあり、里親の家庭もある。そして親にも子にもLGBTQがある(最後にQというのがつくものは本書で初めて知った)。
 とうぜん、いがみ合いがある。そのいがみ合いは「差別感情」となって顕れる。
 
 しかし。本書を読んで僕は目ウロコ、というか感動してしまう。
 本書で描かれているのは「努力して多様性を克服しようという意志の姿」なのである。
 
 「イエローでホワイトで、ちょっとブルーな」息子君も、著者である九州生まれ育ちの“母ちゃん”も、公立中学校の若き校長も、バイタリティ溢れる母ちゃんの友人たちも、ティーン真っ盛りの息子の友人たちも。いろいろ紆余曲折や悩みや迷いや衝突はあるけれど、努力して多様性のある社会をつくろうとするのだ。それは「克服」なのだった。気を許したり、感情に流されたり、安きについたりすると多様性はすぐに弊害となり、差別と排他と蔑視になる。そのほうが楽なのである。しかしそれではいけない、と彼らは努力するのだ。多様性はそのままでは厄介で面倒なものなのである。多様性を多様性のままにするにはあえて自分の感情や相手のためらいや周囲の軋轢を「克服」しなければならないのだ。
 
 ではなぜ。感情に逆らってまで多様性を克服していかなければならないのか。
 それは、この世の中はこれから先ますます多様性を増してくるからだ。ここで多様性を克服しなければ、未来はもっと分断と対立になる。つまり、もっと差別と排他と蔑視がうずまく世界になってしまう。人種も性も階級も宗教もそのほか様々な属性も。すべてが異質ながら等価で屹立した均衡された社会にしていかなければ、もう人間の世の中は平和裏に維持できないのである。自分とは違う人間がやってきたからといって排除したり矯正したりできないのである。(著者である「母ちゃん」は“多様性はないほうが楽だが、楽ばっかりしていると無知になる”と息子君に諭している。また諸悪は「無知」の成すものだとも言っている。なるほどなあ。)
 だから「克服」に挑む姿はむしろ苦しげだ。葛藤も多い。息子君はアイデンティティ熱(知恵熱)まで出す。
 
 で、本書で感心してしまうのは(もしかしたら本書の主題といってもいいのかもしれないが)、息子君をはじめとするティーンの子どもたちは、そういった多様性が起こす確執の勃発を、肌感覚と試行錯誤でいつのまにやらなんとはなしにしっくりやっつけてしまうことである。子どもの柔軟性といってしまうと陳腐だけれど、やはりオトナにはマネできない気がする。
 したがって「克服」にもっとも手を焼くのは、多様性にさらされたことのないオトナたちである。息子君の友人で、どうしても差別感覚が抜けないポーランド移民の男子が出てくるのだが、この友人の口から発せられるヘイトから察するに、彼の父親が差別観の持ち主なのである。これはこの父親がそういう気分にさせるような、そういう境遇を生きてきたような人生であったことも察せられる。また、本書で登場する、とある九州の日本人中年男性が酔っぱらって見せたあまりにもステレオタイプなガイジン蔑視は、同じ日本人として哀しくなるばかりだ。(「Youは何しに日本へ?」も差別的といえば言い過ぎだけど、日本人特有の精神構造に基づいた番組企画ではあることに本書で気づいた)
 
 日本はどうだろうか。
 日本は、移民に関してはほぼ門戸を閉ざしているし、結婚の多様性もLGBTの市民権も、かつてに比べてはだいぶ認められる気運になってはきているものの、民法や条例の世界ではまだまだ昔の規範で条文化されたままのところが多い。日本の場合は、本書のイギリスのようにのど元に突き付けられたような多様性待ったなしのところがまだまだ少ないのかもしれない(そもそもイギリスの場合、イングリッシュかブリティッシュかヨーロピアンかというアイデンティティの階層がいま衝突しているそうだ。言われるまで気が付かなかったなあ)。
 とは言うものの。日本もこの多様性の克服は必ずや必要になってくるはずである。移民については最後の試練になるんではないかと個人的には思うが、一億総中流と言われた戦後昭和に生まれた様々な概念ー人生すごろくゲーム、標準世帯、新卒一括採用、終身雇用、同調圧力ーなどの日本社会の一律化のエンジンとなっていたものがどんどん解体してきているのは周知のとおりだ。
 これすなわち。自分と共通の糸口の見つからない、自分とは全然違う世界の人間とこれから社会を一緒にやっていかなければならないのである。学校でも職場でもご近所でもだ。気を抜くとすぐに差別と排他と蔑視に堕してしまうことを肝に銘じて「克服」していかなければならない。楽ばかりしていると無知になるのである。
 

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