アルトさんからコメントを、再度頂きました。それに対する私の回答を、記事として上げておきます。
以下引用。
>夜中にレスをくれたんですね。疲れているところを。もう無理しないでください。
はい。無理だけはしないというのは、私の信条のひとつです。仕事は忙しいですが、無理は決してしておりませんので、お気になさいませんように。
>レビ族が単独でひとつの勢力になった時期があるのです。あくまでも推理ですが。それは映画スターウォーズにメタファーとして描かれている。レイア姫がユダ族の正統の姫。ルークがユダ族の族長。悪の皇帝がレビ族の族長。大まかにこの構成で作られた物語となっています。
それが事実だとしたら、大問題です。先ず取り敢えずは、何時、何処で、何故、どの様な経緯で、の規定が必要ですね。
>モーゼが全ユダヤから召集可能な兵力として、60万人という数字が聖書に記されている。これはすさまじい数字です。事実上世界最強の軍事力です。この数字に着目する人がほんとんどいない。
60万人は兵力ではなく、エジプトから連れ出された青年男子の数となっていますよ。民の数です。
>私はレビがヤコブの子供だと看做しておりません。
聖書にはヤコブの子供だと明記されています。
>モーゼは捨て子です。雛形としてそれ以前に似た事象を探したけど見当たりません。
モーゼはレビの血筋だが、捨てられてエジプトの王女に拾われ、育てられたのでした。その後に自分のレビとしての血筋や使命に目覚め、イスラエルの民を率いてエジプトを脱出させるという大偉業を成し遂げたということでした。この記述に基づけば、モーゼはレビの家系に紛れ込んだ得体のしれない出自のものという穿った見方もできないわけではないわけです。彼以降のレビ族は、アーロン系のレビ族と共に、レビの中核となって行きますが、ということは、この時、レビの家系の一部に、得体のしれない出自の何者かの血が入ったということになります。しかしながら、エジプトのファラオの王女に拾われた直後にモーセは、その姉と母親によって無事が確認されたということが記述されています。ですから、なりすましの可能性は極めて低いことになります。
そもそも、モーセの権威は、イスラエルやユダヤの存在意義そのものと、この上なく密接に結びついたものです。この彼が邪な氏族出身の者のなりすましだったとしたら、イスラエルやユダヤの存在そのものが影の邪な目的を持った虚構ということにもなり、善なる神の歴史への関与そのものの否定に繋がりかねないと思います。イエスの復興運動の理念の中にモーセのことは入ってこないことになり、イエスがタボール山でエリアとモーゼの復活体と会談していたというエピソードも邪な虚偽であるということになってしまいます。そもそも、律法の石板もアークも、マナの壺もアーロンの杖も、全てが邪な虚構ということにもなります。ということは、日本形成史にイスラエルやユダヤの痕跡を見ることなんて、最初からナンセンスということになるわけです。従って、モーセを侵入者と見做すのは、やや問題ありかもしれませんね。
ただ、モーセの背後に「主」と呼ばれ、祈りの中で心の中で対話するのではなく、わざわざ高い山の上に登って会いに行かないと対話できない存在者がいて、その存在者の指導の元でモーセが大事業を指導していたことは確かであり、この「主」を、イスラエルをある目的のために外部から操る陰の異民族と見做すことができるとは考えます。私もそれを、クリスチャンらしく単純に「神」と見做す部分もありますが、外部の陰の支配部族とする考え方にもまた違う観点から大いに信憑性を感じる訳です。両者は私の中では全く矛盾してはいません。「宇宙人がそれなのだ」という人がいるのを耳にした場合にも、例によって、そうかもしれないと受け入れつつ、自分の中で完全な咀嚼ができるまでは人様に伝えるのは控えようという態度を貫いています。何れにしても、イスラエルの周辺に陰の外部支配氏族の存在を想定できるとは考えてはいる訳です。しかし、だからと言ってそれを短絡的に、悪と決めつけることには反対です。
>しかし、ヤコブの預言もしくは遺言でヤコブは、レビとシメオンを呪っています。
ヤコブによるレビやシメオンへの呪いの言葉は、その帰結として、他の兄弟達の中に散らされるという内容を伴ったものでした。ハムやエソウに対して「他の兄弟たちの僕の僕となれ」と帰結したのとは大きく異なっています。彼等は、どんなに呪われても、飽くまでもイスラエルの一員と見做されていた訳です。この差は、同じ呪いとは言え、極めて大きいと言わざるを得ません。
註:因みに、ハムやエソウの犯した罪の内容は、権威の失態を愉しんでしまった罪や、自分に引き渡される予定であった権威の取り扱いの重さを十分に感じ取れなかった罪でした。ということは、聖書では、権威がどんなに失態を演じても、従う者達にそれを嘲笑う権利はないということが書かれているということになります。これは『論語』で仁の本としての孝悌の重要性の指摘がなされているのと同じです。私が、天皇がたとえ偽者であったとしても、国民としては信じるしかないと言うのとも、本質は同じです。国民としては、そしてそのリーダーとして世に出る場合には特に、どんな場合でも、乱を是認してはいけない、ということです。現代のインターネット上の陰謀論のオピニオンリーダーの多くが、これと同じ罪を犯していると感じるのですが、どうでしょうか?
>何故なのか。あるときひとつの着想を得ました。モーゼはなぜか当時の黒人部族と親交がありましたから、もしや、モーゼは黒人の血を引くのではないかと。ここからレビも捨て子で、黒人の奴隷の子ではないかと。この着想が正しければ、レビはつまりはハムの子孫です。故に、ユダヤ人ではありません。
レビとシメオンには、怒りをコントロールできず、暴力に容易に走ってしまう強い傾向性があるからなどという戒めはあります。だからと言って、イスラエルから追放はされませんでした。エソウやハムと違って、同族性の維持が間違いなく、大前提となっていたのです。
レビは捨て子である、即ち、外部からある意図を持って密かに侵入させられた者であるということがあったなら、罪を犯したと言って呪いの言葉を浴びせる際に、ハムやエソウの時のように、いやむしろそれ以上に、即追放ということになって然るべきであったはずです。外部からある意図を持って密かに侵入させられた者でありながら、即追放となるべき時にそうはならなかったというのは、どのように解釈できるのでしょうか?ヤコブにとってレビは主人から送られたが故に、どんなにできが悪くても決して蔑ろにできない存在だったということなのでしょうか?高貴な者が自分の子供を孕んだ愛妾を近臣に下賜するという習慣は、東洋では文献上、色んな箇所で確認できたと思いますが、その類のことだったのでしょうか?
実は私は、そういう解釈にはある程度信憑性があると感じているのです。でないと、こんな出来の悪い性格のレビが各支族に配分されて祭祀を行うような特権的な重要な役割に着けられた理由が全く分からなくなるからです。
だとしても、だからと言ってレビは全て「邪悪な」侵入氏族であるなどと断言するのは、言い過ぎではないでしょうか?イスラエルやユダヤにとっての「主」がイスラエルやユダヤを組織したことそのものを、悪とは決して言えないはずだからです。
その「主」の全員がハムで、セムに対して氏族全体で激しい悪意を抱き続けていて、セムからイスラエルが出てくることそのものがそのハム族の邪な計略の中で行われたのだと考えたらどうでしょうか?レビは実はハムの血筋の者だ。だからこそ、その後のイスラエル族の苦難の元凶となったのだなどと考える場合にはまさに、レビをイスラエルの各支族に祭祀族として配分したイスラエルの「主」そのものの抱いている元々の意図が邪悪なものだったと考えるしかなくなるでしょう。
イスラエルやユダヤ系の宗教を根本から否定する人がいますが、今上で述べたようなことに頭の中でなっていたら、それは、そうしたくもなるはずです。ベンジャミン=フルフォードさんもそのような主張をしていました。しかし、別の箇所ではハムそのものがその「主」から呪われたとも書かれています。即ち、上に述べたようなイスラエルを組織した「主」の全員がハムだったなどということは、ハムがこの「主」の全てを滅ぼして「主」になりすましていたということがない限り、絶対にあり得ないことなのです。ハムがイスラエルの形成前に、自分を呪った自分の「主」を滅ぼし、その「主」になりすましていた。このようなストーリーは本当に、一定の信憑性を持って描けるのでしょうか?
仮に描けたとしましょう。その場合でも、そんな邪悪な茶番劇の流れを汲んでいるはずの、後のユダ族やイエスの宗教をアルトさんが高く評価なさっているのは、どういう経緯からでしょうか?
その場合、聖なる霊統のエッセネ派や東方のマギ、イエスによる復興は、通常言われているような、邪悪なパリサイからのイスラエルの解放と復興などではなく、邪悪なイスラエルからのイスラエル以前の何かの解放という、全く正反対の意味を帯びてしまうものと考えられます。
「イエスはパリサイに牛耳られ堕落したユダヤのただ中に立って、パリサイが自分達に都合よく曲解してその本質を歪め、それを用いて人々を苦しめている『律法』をその本源に戻して、モーセが初めてそれを人々の元にもたらした時の原点に回帰させるとともに、律法以上に大切で、律法の本源にも深く関わっている神や人類への愛という原理を新しく、イスラエルの民に、その身を犠牲にすらして示した」
これが一般的なイエス理解です。それに対して、イスラエルが、そしてイスラエルにレビを送り込んで、モーセを操ってイスラエルを組織した「主」が邪悪な者であったと考えながらも、イスラエルから出て来てイスラエルの中での復興運動を行ったイエスを高く評価する場合、今述べたような一般的なイエス理解が、次のようなものに変更されないといけないことになってしまいます。即ち、
「邪悪なレビ出身で外部の邪悪な支配部族と密接に連絡しあっているモーセがイスラエルの中に持ち込んだ律法そのものを排すべし。大切なのは律法のようなものではなく、神や人類への愛なのだ。律法にではなく神や人類への愛に基づいた新たなイスラエルを立てるべし。これがイエスの真意だった」
といったものにです。
が、本当にそれでいいのでしょうか?イエスの言葉にも「私が律法を排するために来たと勘違いしてはならない。むしろ、律法を成就させるために来たのだ」という言葉がありました。ここでは明らかに「律法だけではなく愛も、愛だけではなく律法も」と言われていると思うのですが、上のイエス理解の中に含まれるモーセとレビの認識は、限定表現と添加表現の混同からくる例のあの普遍的な誤謬をここでも犯してしまった上で、その流れの中で「律法ではなく愛を」と言っているのだとイエスのことを完全に誤解してしまい、このイエス自身による警告の言葉すらいつの間にか忘却してしまったが故の間違ったモーセ観、レビ観なのではないかとも考えられる訳です。
何れにしても、更なる検討が必要な、余りにも大胆な仮説になってしまっていると思われて仕方がありません。どうなのでしょうか?
「レビもモーセも外部の支配部族と密接に連絡しあっているものではあったが、だからと言って、この外部の支配部族も含めて、その本質を邪悪などと決めつけることはできない。レビがある時に邪悪な支族に見えるようになったのは、今述べたのとは全く異なる経路でハムあるいはエソウの侵入や乗っ取りを受けてしまったからだ」
こう考えるのが最も合理的だと思うのでしょうが、違っているのでしょうか?
>スピルバーグもルーカスもユダヤ系ですか?エッセネ派かもしれませんね。
彼らが善か悪かは、彼ら自身の行いが証明することでしょう。
>聖書にはエサウ族は邪悪な描かれ方はないと思います。問題のある部族ではあっても。
権威の重みを十分に感じ取ることができず、自分でも知らないうちに権威を軽んじてしまった罪が、彼を巡っては表現されています。だから「主」の権威の代理人たるイサクによって呪われ、イスラエルの中での居場所を失ってしまい、更に悪いことには、その後も後悔せずにヤコブを激しく呪ったと、はっきりと書かれています。
>白丁は新羅です。大伴氏です。仲麻呂謀反により聖武天皇が失脚したときに聖武天皇方について頑強に抵抗した半島のマケドニア人の後裔の秦氏です。愛すべき同族です。韓国人は全般は高貴な血筋のぺくちょんをいたぶり尽くした憎むべきやつらです。嫌です。兄弟はぺくちょんだけです。
それに加えて、韓国の上層部にも、列島の善良なる住人と血統的に近しい関係にある者達が全くいないという訳ではないということも、言っておく必要があります。飽くまでも、邪悪な氏族に侵入され、寄生され、乗っ取られているだけと言った方がいいでしょう。何れにしても、見極めは非常に難しいでしょうが。ただし、行いだけは隠せないでしょう。行いで判断しさえすればいいのでしょう。ということは、行いを観て判断する前から一括りに「韓国人は」などと言って非難するのだけは、やめておいた方がいいということになります。
>文鮮明の血が愛子に?天皇家に?それはさすがにないでしょう。
それなら安心です。
>ただ小和田ひさしはあやしいですね。私見ではサンカ系ではないかと思うけれど。
平安時代になってから列島に入り込み、律令制の枠外に追い払われ、主に山の民の保護の元で命脈を保ち、その後の各時代において各地の豪族に、忍びや傭兵として雇われていた人達の内のひとつのことですね。それについて小和田氏がどうなのかは、私には何の判断もできません。
>出エジプトの真相はモーゼ率いるレビ族と追随した十二部族の一部が、エジプトを追放されたことだと認識しています。モーゼの死後レビの一部はアナトリア地方に進出。その後ユダ族の侵攻によりアナトリアを追放され、中原に侵攻して夏王朝を建国。
何れにしても、上記のごとく、時間をかけて熟考しなければならない情報です。
>殷王朝はいけにえ殺人文化です。中原に流入した古代イスラエルも生贄の犠牲にされたのでは。
殷は九州北部にいち早く定着していた、シュメールとの同一化が指摘されるハッティと、その古くからのパートナーたるエブスが、中原に侵入して創った王朝でした(彼等は松重楊江氏によると蘇我氏と中臣氏、海部氏のことだったようです)。生贄殺人文化だったという話は、考古学上の常識であるばかりか、この私の持っている情報とも十分に辻褄の合う話です。ハッティやエブスの王国だった東表国の半島側の領域に当たる伽耶でも、その風習の存在が考古学上、確認されるようです。また、遠く西では、トラキアの古墳でその風習が確認されています。勿論、列島にもその風習はありました。
生贄にされたイスラエルとは、羌族のことですよね。
>夏王朝と殷王朝で「カイン」。こじつけだとしても一分の真理を言い表しているような気もするのです。
かもしれません。
>飯山一郎は自身のブログで書いていた。今上は殷王朝の末裔だと。彼の属する氏族はこれなんでしょうね。マヨもこちらに入れ込んでいるようです。
殷→箕子朝鮮→扶余→九州物部の一部→百済は分かっています。皆さんの話は兎に角、詳細を省いた、等記号を用いた図式に終始することが多いようです。よくその程度のサジェスチョンで満足し、お互いの意思疎通ができているなと感じること多々ですよ。もう少し詳細に書いてくださったらいいのですが。
>今の皇室など呪いこそすれ、崇めることなぞできるわけがない。今上とその一族が憎い。八百長の世界大戦の大本。滅ぼすべし。
今の天皇家を滅ぼした後で、どこの誰が責任を担っていくのか?私が気にするのは、いつもこれなのです。王殺しは、どんな形であれ、国民の国民としての本質を著しく傷つけてしまうような性質のものなのです。ましてや、天皇陛下は、ただの王などではないのです。軽々しく滅ぼすなどとは、どんな立場からも決して、言えないはずです。
引用以上。
以下引用。
>夜中にレスをくれたんですね。疲れているところを。もう無理しないでください。
はい。無理だけはしないというのは、私の信条のひとつです。仕事は忙しいですが、無理は決してしておりませんので、お気になさいませんように。
>レビ族が単独でひとつの勢力になった時期があるのです。あくまでも推理ですが。それは映画スターウォーズにメタファーとして描かれている。レイア姫がユダ族の正統の姫。ルークがユダ族の族長。悪の皇帝がレビ族の族長。大まかにこの構成で作られた物語となっています。
それが事実だとしたら、大問題です。先ず取り敢えずは、何時、何処で、何故、どの様な経緯で、の規定が必要ですね。
>モーゼが全ユダヤから召集可能な兵力として、60万人という数字が聖書に記されている。これはすさまじい数字です。事実上世界最強の軍事力です。この数字に着目する人がほんとんどいない。
60万人は兵力ではなく、エジプトから連れ出された青年男子の数となっていますよ。民の数です。
>私はレビがヤコブの子供だと看做しておりません。
聖書にはヤコブの子供だと明記されています。
>モーゼは捨て子です。雛形としてそれ以前に似た事象を探したけど見当たりません。
モーゼはレビの血筋だが、捨てられてエジプトの王女に拾われ、育てられたのでした。その後に自分のレビとしての血筋や使命に目覚め、イスラエルの民を率いてエジプトを脱出させるという大偉業を成し遂げたということでした。この記述に基づけば、モーゼはレビの家系に紛れ込んだ得体のしれない出自のものという穿った見方もできないわけではないわけです。彼以降のレビ族は、アーロン系のレビ族と共に、レビの中核となって行きますが、ということは、この時、レビの家系の一部に、得体のしれない出自の何者かの血が入ったということになります。しかしながら、エジプトのファラオの王女に拾われた直後にモーセは、その姉と母親によって無事が確認されたということが記述されています。ですから、なりすましの可能性は極めて低いことになります。
そもそも、モーセの権威は、イスラエルやユダヤの存在意義そのものと、この上なく密接に結びついたものです。この彼が邪な氏族出身の者のなりすましだったとしたら、イスラエルやユダヤの存在そのものが影の邪な目的を持った虚構ということにもなり、善なる神の歴史への関与そのものの否定に繋がりかねないと思います。イエスの復興運動の理念の中にモーセのことは入ってこないことになり、イエスがタボール山でエリアとモーゼの復活体と会談していたというエピソードも邪な虚偽であるということになってしまいます。そもそも、律法の石板もアークも、マナの壺もアーロンの杖も、全てが邪な虚構ということにもなります。ということは、日本形成史にイスラエルやユダヤの痕跡を見ることなんて、最初からナンセンスということになるわけです。従って、モーセを侵入者と見做すのは、やや問題ありかもしれませんね。
ただ、モーセの背後に「主」と呼ばれ、祈りの中で心の中で対話するのではなく、わざわざ高い山の上に登って会いに行かないと対話できない存在者がいて、その存在者の指導の元でモーセが大事業を指導していたことは確かであり、この「主」を、イスラエルをある目的のために外部から操る陰の異民族と見做すことができるとは考えます。私もそれを、クリスチャンらしく単純に「神」と見做す部分もありますが、外部の陰の支配部族とする考え方にもまた違う観点から大いに信憑性を感じる訳です。両者は私の中では全く矛盾してはいません。「宇宙人がそれなのだ」という人がいるのを耳にした場合にも、例によって、そうかもしれないと受け入れつつ、自分の中で完全な咀嚼ができるまでは人様に伝えるのは控えようという態度を貫いています。何れにしても、イスラエルの周辺に陰の外部支配氏族の存在を想定できるとは考えてはいる訳です。しかし、だからと言ってそれを短絡的に、悪と決めつけることには反対です。
>しかし、ヤコブの預言もしくは遺言でヤコブは、レビとシメオンを呪っています。
ヤコブによるレビやシメオンへの呪いの言葉は、その帰結として、他の兄弟達の中に散らされるという内容を伴ったものでした。ハムやエソウに対して「他の兄弟たちの僕の僕となれ」と帰結したのとは大きく異なっています。彼等は、どんなに呪われても、飽くまでもイスラエルの一員と見做されていた訳です。この差は、同じ呪いとは言え、極めて大きいと言わざるを得ません。
註:因みに、ハムやエソウの犯した罪の内容は、権威の失態を愉しんでしまった罪や、自分に引き渡される予定であった権威の取り扱いの重さを十分に感じ取れなかった罪でした。ということは、聖書では、権威がどんなに失態を演じても、従う者達にそれを嘲笑う権利はないということが書かれているということになります。これは『論語』で仁の本としての孝悌の重要性の指摘がなされているのと同じです。私が、天皇がたとえ偽者であったとしても、国民としては信じるしかないと言うのとも、本質は同じです。国民としては、そしてそのリーダーとして世に出る場合には特に、どんな場合でも、乱を是認してはいけない、ということです。現代のインターネット上の陰謀論のオピニオンリーダーの多くが、これと同じ罪を犯していると感じるのですが、どうでしょうか?
>何故なのか。あるときひとつの着想を得ました。モーゼはなぜか当時の黒人部族と親交がありましたから、もしや、モーゼは黒人の血を引くのではないかと。ここからレビも捨て子で、黒人の奴隷の子ではないかと。この着想が正しければ、レビはつまりはハムの子孫です。故に、ユダヤ人ではありません。
レビとシメオンには、怒りをコントロールできず、暴力に容易に走ってしまう強い傾向性があるからなどという戒めはあります。だからと言って、イスラエルから追放はされませんでした。エソウやハムと違って、同族性の維持が間違いなく、大前提となっていたのです。
レビは捨て子である、即ち、外部からある意図を持って密かに侵入させられた者であるということがあったなら、罪を犯したと言って呪いの言葉を浴びせる際に、ハムやエソウの時のように、いやむしろそれ以上に、即追放ということになって然るべきであったはずです。外部からある意図を持って密かに侵入させられた者でありながら、即追放となるべき時にそうはならなかったというのは、どのように解釈できるのでしょうか?ヤコブにとってレビは主人から送られたが故に、どんなにできが悪くても決して蔑ろにできない存在だったということなのでしょうか?高貴な者が自分の子供を孕んだ愛妾を近臣に下賜するという習慣は、東洋では文献上、色んな箇所で確認できたと思いますが、その類のことだったのでしょうか?
実は私は、そういう解釈にはある程度信憑性があると感じているのです。でないと、こんな出来の悪い性格のレビが各支族に配分されて祭祀を行うような特権的な重要な役割に着けられた理由が全く分からなくなるからです。
だとしても、だからと言ってレビは全て「邪悪な」侵入氏族であるなどと断言するのは、言い過ぎではないでしょうか?イスラエルやユダヤにとっての「主」がイスラエルやユダヤを組織したことそのものを、悪とは決して言えないはずだからです。
その「主」の全員がハムで、セムに対して氏族全体で激しい悪意を抱き続けていて、セムからイスラエルが出てくることそのものがそのハム族の邪な計略の中で行われたのだと考えたらどうでしょうか?レビは実はハムの血筋の者だ。だからこそ、その後のイスラエル族の苦難の元凶となったのだなどと考える場合にはまさに、レビをイスラエルの各支族に祭祀族として配分したイスラエルの「主」そのものの抱いている元々の意図が邪悪なものだったと考えるしかなくなるでしょう。
イスラエルやユダヤ系の宗教を根本から否定する人がいますが、今上で述べたようなことに頭の中でなっていたら、それは、そうしたくもなるはずです。ベンジャミン=フルフォードさんもそのような主張をしていました。しかし、別の箇所ではハムそのものがその「主」から呪われたとも書かれています。即ち、上に述べたようなイスラエルを組織した「主」の全員がハムだったなどということは、ハムがこの「主」の全てを滅ぼして「主」になりすましていたということがない限り、絶対にあり得ないことなのです。ハムがイスラエルの形成前に、自分を呪った自分の「主」を滅ぼし、その「主」になりすましていた。このようなストーリーは本当に、一定の信憑性を持って描けるのでしょうか?
仮に描けたとしましょう。その場合でも、そんな邪悪な茶番劇の流れを汲んでいるはずの、後のユダ族やイエスの宗教をアルトさんが高く評価なさっているのは、どういう経緯からでしょうか?
その場合、聖なる霊統のエッセネ派や東方のマギ、イエスによる復興は、通常言われているような、邪悪なパリサイからのイスラエルの解放と復興などではなく、邪悪なイスラエルからのイスラエル以前の何かの解放という、全く正反対の意味を帯びてしまうものと考えられます。
「イエスはパリサイに牛耳られ堕落したユダヤのただ中に立って、パリサイが自分達に都合よく曲解してその本質を歪め、それを用いて人々を苦しめている『律法』をその本源に戻して、モーセが初めてそれを人々の元にもたらした時の原点に回帰させるとともに、律法以上に大切で、律法の本源にも深く関わっている神や人類への愛という原理を新しく、イスラエルの民に、その身を犠牲にすらして示した」
これが一般的なイエス理解です。それに対して、イスラエルが、そしてイスラエルにレビを送り込んで、モーセを操ってイスラエルを組織した「主」が邪悪な者であったと考えながらも、イスラエルから出て来てイスラエルの中での復興運動を行ったイエスを高く評価する場合、今述べたような一般的なイエス理解が、次のようなものに変更されないといけないことになってしまいます。即ち、
「邪悪なレビ出身で外部の邪悪な支配部族と密接に連絡しあっているモーセがイスラエルの中に持ち込んだ律法そのものを排すべし。大切なのは律法のようなものではなく、神や人類への愛なのだ。律法にではなく神や人類への愛に基づいた新たなイスラエルを立てるべし。これがイエスの真意だった」
といったものにです。
が、本当にそれでいいのでしょうか?イエスの言葉にも「私が律法を排するために来たと勘違いしてはならない。むしろ、律法を成就させるために来たのだ」という言葉がありました。ここでは明らかに「律法だけではなく愛も、愛だけではなく律法も」と言われていると思うのですが、上のイエス理解の中に含まれるモーセとレビの認識は、限定表現と添加表現の混同からくる例のあの普遍的な誤謬をここでも犯してしまった上で、その流れの中で「律法ではなく愛を」と言っているのだとイエスのことを完全に誤解してしまい、このイエス自身による警告の言葉すらいつの間にか忘却してしまったが故の間違ったモーセ観、レビ観なのではないかとも考えられる訳です。
何れにしても、更なる検討が必要な、余りにも大胆な仮説になってしまっていると思われて仕方がありません。どうなのでしょうか?
「レビもモーセも外部の支配部族と密接に連絡しあっているものではあったが、だからと言って、この外部の支配部族も含めて、その本質を邪悪などと決めつけることはできない。レビがある時に邪悪な支族に見えるようになったのは、今述べたのとは全く異なる経路でハムあるいはエソウの侵入や乗っ取りを受けてしまったからだ」
こう考えるのが最も合理的だと思うのでしょうが、違っているのでしょうか?
>スピルバーグもルーカスもユダヤ系ですか?エッセネ派かもしれませんね。
彼らが善か悪かは、彼ら自身の行いが証明することでしょう。
>聖書にはエサウ族は邪悪な描かれ方はないと思います。問題のある部族ではあっても。
権威の重みを十分に感じ取ることができず、自分でも知らないうちに権威を軽んじてしまった罪が、彼を巡っては表現されています。だから「主」の権威の代理人たるイサクによって呪われ、イスラエルの中での居場所を失ってしまい、更に悪いことには、その後も後悔せずにヤコブを激しく呪ったと、はっきりと書かれています。
>白丁は新羅です。大伴氏です。仲麻呂謀反により聖武天皇が失脚したときに聖武天皇方について頑強に抵抗した半島のマケドニア人の後裔の秦氏です。愛すべき同族です。韓国人は全般は高貴な血筋のぺくちょんをいたぶり尽くした憎むべきやつらです。嫌です。兄弟はぺくちょんだけです。
それに加えて、韓国の上層部にも、列島の善良なる住人と血統的に近しい関係にある者達が全くいないという訳ではないということも、言っておく必要があります。飽くまでも、邪悪な氏族に侵入され、寄生され、乗っ取られているだけと言った方がいいでしょう。何れにしても、見極めは非常に難しいでしょうが。ただし、行いだけは隠せないでしょう。行いで判断しさえすればいいのでしょう。ということは、行いを観て判断する前から一括りに「韓国人は」などと言って非難するのだけは、やめておいた方がいいということになります。
>文鮮明の血が愛子に?天皇家に?それはさすがにないでしょう。
それなら安心です。
>ただ小和田ひさしはあやしいですね。私見ではサンカ系ではないかと思うけれど。
平安時代になってから列島に入り込み、律令制の枠外に追い払われ、主に山の民の保護の元で命脈を保ち、その後の各時代において各地の豪族に、忍びや傭兵として雇われていた人達の内のひとつのことですね。それについて小和田氏がどうなのかは、私には何の判断もできません。
>出エジプトの真相はモーゼ率いるレビ族と追随した十二部族の一部が、エジプトを追放されたことだと認識しています。モーゼの死後レビの一部はアナトリア地方に進出。その後ユダ族の侵攻によりアナトリアを追放され、中原に侵攻して夏王朝を建国。
何れにしても、上記のごとく、時間をかけて熟考しなければならない情報です。
>殷王朝はいけにえ殺人文化です。中原に流入した古代イスラエルも生贄の犠牲にされたのでは。
殷は九州北部にいち早く定着していた、シュメールとの同一化が指摘されるハッティと、その古くからのパートナーたるエブスが、中原に侵入して創った王朝でした(彼等は松重楊江氏によると蘇我氏と中臣氏、海部氏のことだったようです)。生贄殺人文化だったという話は、考古学上の常識であるばかりか、この私の持っている情報とも十分に辻褄の合う話です。ハッティやエブスの王国だった東表国の半島側の領域に当たる伽耶でも、その風習の存在が考古学上、確認されるようです。また、遠く西では、トラキアの古墳でその風習が確認されています。勿論、列島にもその風習はありました。
生贄にされたイスラエルとは、羌族のことですよね。
>夏王朝と殷王朝で「カイン」。こじつけだとしても一分の真理を言い表しているような気もするのです。
かもしれません。
>飯山一郎は自身のブログで書いていた。今上は殷王朝の末裔だと。彼の属する氏族はこれなんでしょうね。マヨもこちらに入れ込んでいるようです。
殷→箕子朝鮮→扶余→九州物部の一部→百済は分かっています。皆さんの話は兎に角、詳細を省いた、等記号を用いた図式に終始することが多いようです。よくその程度のサジェスチョンで満足し、お互いの意思疎通ができているなと感じること多々ですよ。もう少し詳細に書いてくださったらいいのですが。
>今の皇室など呪いこそすれ、崇めることなぞできるわけがない。今上とその一族が憎い。八百長の世界大戦の大本。滅ぼすべし。
今の天皇家を滅ぼした後で、どこの誰が責任を担っていくのか?私が気にするのは、いつもこれなのです。王殺しは、どんな形であれ、国民の国民としての本質を著しく傷つけてしまうような性質のものなのです。ましてや、天皇陛下は、ただの王などではないのです。軽々しく滅ぼすなどとは、どんな立場からも決して、言えないはずです。
引用以上。