飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

記紀の中にも「三人の天皇」

2013-04-14 04:51:43 | 日本論と宗教論
はぐれメタルファラオさんのコメントへの回答を以下に、記事として上げておきます。皆さんにも読んでいただきたいと思います。


以下引用。

>これからは実名でコメントします。

「はぐれメタルファラオ」は、これほどお付き合いが深まった今となっては、私には最早、ご実名と同じようなものと感じられます。ご不都合でなければ、お気になさらず、そのまま変わらずにお使いください。

>飛鷹さんは、秀頼が薩摩に行ったという説を採用されているのですね。

薩摩にお墓が遺されています。それも捏造だ、などと言う人がいるかもしれませんが、お墓の捏造など、しかもつい最近まで一般に知られることがないくらいにひっそりと捏造されたお墓なんて、捏造主に何のメリットもないはずです。ですから、捏造の線はほぼ、ないものと言っていいでしょう。そもそも、敗戦の将が敗戦の混乱の中で、遺体とは言え行方不明になるなんて、異常なことなのです。敗戦には敗戦の作法があるものです。この作法から外れた事例は例外なく、何か裏があるのです。例えば、本能寺での信長の最後もそうでした。秀頼には、徳川方によっても決して手にかけることのできないような要素が何か、必ずあったはずなのです。例えば実は、この上ない程に高貴な出自であったなどといったような。

>日教組(と飛鳥氏)は、応神天皇の即位を紀元5世紀頃に求めており、ここでは約200年のずれがあります。もしかしたら、応神天皇とあがめられる人物は二人いるのかもしれません。

イザヤとレヴィ達が紀元前7世紀に南ユダ王国から阿波に連れてきた南ユダ王国の王子は、イザヤとレヴィ達が阿波を中心に建国した王国の王位に即位したということ以外、目立った事績はひとつもありませんでした。しかし、8世紀の記紀の中では、イザヤとレヴィ達の王国に敬意を表する意味で「はつくにしらすすめらみこと」或いは「神武天皇」と命名されました。そして、イザヤとレヴィ達の王国が九州邪馬臺国の王を大和に迎え入れる形で近畿邪馬臺国を建国した3世紀に、その初代王として君臨した人物の事績の前半部分もまた、記紀の中で譲渡されたのでした。

九州邪馬臺国から大和に東遷して新しく建国された近畿邪馬臺国。その初代王となり、記紀の中ではその事績の前半部分を「神武天皇」に譲渡し、事績の後半部分をのみ自ら引き受ける形で描写されている人物。これもまた、記紀の中では、その事績に相応しく「はつくにしらすすめらみこと」と命名されました。と同時に、かの「神武天皇」と区別するために「崇神天皇」とも命名された訳です。

註:この天皇が4人の将軍を派遣したとされる4つの地域とは、山陽道(長門を含む)と丹波道(亀岡を中心とする内陸部のみで日本海沿岸は含まれない)、北陸道、東海道のことで、九州から四国、近畿に及ぶ部分が含まれていませんでした。このことからも、近畿邪馬臺国の中枢部が、私が主張しているような九州から四国、近畿に及ぶ太平洋側の地域だったことが伺い知られます。瀬戸内よりも土佐周りの海路がまだ、当時の幹線経路だったのです。また、これらの派遣地域に山陰の日本海沿岸が含まれていないことから、山陰の日本海側には他の地域とはやや異質の強大な勢力があり(所謂「投馬国」或いは「丹波出雲」。更には、現在の出雲に当たる「意宇」のこと。長門は含まない)、この段階ではまだ、所謂「国譲り」にまでは及んでいなかったことも分かります。


註:この「崇神天皇」が『魏志倭人伝』の中に描かれたあの卑弥呼とほぼ同時代ということになりますが、両者の関係については、現在はまだ、調査中でしかありません。ただし、この関係を探るためには、イスラエルやユダヤと巫女との関係を精密に調査しなければならないことだけは分かっています。

最後は「応神天皇」です。実は、百済本紀の「近尚古王」が4世紀終盤に「崩御」した後、本当はまだ存命中で、百済国の本国に当たる近畿邪馬臺国に何らかの事情で招き入れられて倭王を継承したのだということが、文献学上も事実として確認できるのだそうです。記紀の中で「神」の文字を含む呼称を充てがわれて描かれた三人の天皇の内の(これは、例のあの「三人の天皇」の記紀内での表現法に当たると言っていいと思います)最後の「応神天皇」とは、まさにこの、元近尚古王のことでした。彼は倭王在位中に列島の日本海側の王国も糾合して(所謂「国譲り」のこと)、近畿邪馬臺国を、列島の西半分全体を包括する大邪馬臺国へと発展させると共に、結果としてではありますが、かのエソウ族の大半を新羅一国に閉じ込めることにもまた大きく貢献したのでした。彼は同時にまた、前秦滅亡を契機に当時中原に建国したばかりだった、あの雲崗石窟寺院群で有名な鮮卑拓跋部の北魏を脱出して百済に逃れて来ていた秦氏を招き入れ、単なるイスラエル連合でしかなかった大邪馬臺国を、その秦氏が持ち込んだイエス=メシヤ教の元で根本から再編成することにさえ成功したのでした。

神武、崇神、応神の三天皇をどのように関連づけて捉えるべきかについて、現段階で私に把握できていることを巡っては、以上のような纏めをすることができます。これら三天皇は、ある者の事績が一部、他のある者に譲渡されるなどということはあるにしろ、飽くまでも別人格だった訳です。これはほぼ、間違いのないことだろうと思います。前二者を応神天皇一人に集約して考える飛鳥昭雄氏の説は、籠神社の宮司である海部光彦氏が「多次元同時存在の法則」という造語を用いて示唆した事柄に基づいて構成された説であり、その意味で大いに注目すべき説ではありますが、今となっては、明らかに、何らかのミスを犯してしまっていると言わざるを得ません。このミスの原因についても、機が熟した時に、詳述しなければなりません。

引用以上。