飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

日本とアジアの未来を導くべき勢力の台頭

2013-04-13 03:59:17 | 日本論と宗教論
はぐれメタルファラオさんのコメントへの回答を、例の如く、記事としてアップします。


以下引用。

>パソコンの調子がおかしく、ずっと記事を見ているのに何もアクションを起こせず、悶々としていました。

そうでしたか。次は、携帯をスマートフォンに替えて、スマートフォンから記事更新した方がいいかもしれませんね。スマートフォンの便利さは、想像を遥かに超えていますよ。

>インターネットエクスプローラーの最新版のインストールでようやく動くようになり、コメントできるようになりました。

待っておりましたよ。

>失礼ながら、飛鷹さんの新羅系秦氏の情報は、飛鷹さんの情報源にも引っかかっているのでしょうか。

私に情報源はありません。はぐれメタルファラオさんをはじめ、多くの方の情報を総覧して、自分の頭の中に形が見えてくるのを待ち、その形をまた別の多くの情報と照らし合わせて研磨したり、拡張したり、再構成したりしているにすぎません。所謂「哲学者の仕事」でしかない訳です。

はぐれメタルファラオさんの打ち出された「新羅系秦氏」は、極めて有効な概念としてあちこちで紹介させていただいております。YouTube のビデオブログ『在日韓国人が語る犯罪国家韓国』のコメント欄では、まるで、はぐれメタルファラオさんの代わりに議論しているような気分でした。勿論そこでも、紹介しておきました。

この概念を使ってあちこちの分野に目をやると、実に多くのことが見えてきます。それくらい有効な概念です。しかし、マヨさんの打ち出した幾つかの概念もそうですが、同じ概念でも、はぐれメタルファラオさんと私ではその取り扱い方に大きな違いがあるのかもしれないとも思っています。

>今しがたの飛鳥氏のブログには読売とナベツネについて書いてありましたが、どう考えても秦氏の仕業なのに、それでも秦氏がキリストの真理を保っていると述べるのは、不思議な気がします。

飛鳥昭雄氏の論は、現代の政治情勢や世界情勢、社会問題などについては、それ以外の分野の論とは違って、やや力が弱くなってしまっているように感ぜられます。強力な情報源と結びつくと、その情報源の現在の立場を守るという大きな制約が付いてしまう訳で、そのため、そのようなことになってしまっているのかもしれません。こう考えると、VIPになるのも考えものとしか言わざるを得ません。

しかしながら、日本の何処かに現在、歴史的実在としての善が潜伏し、捲土重来を期しているのだという、飛鳥昭雄氏の提示した概念そのものは、その内容には秦氏であれ何であれ関係なく、私の中では今でも、全く色あせていません。アルザルやアヌンナキ、黙示録の予言などのことについては、信憑性が極めて高いとの直感はあるものの、確かに私は、飽くまでも厳格に、それを自分の論の中に含ませないようにしています。それに対して、歴史的実在としての善、即ち、ある時期に原始イエス=メシヤ教会として世間に認知されていた集団が現在、日本の何処かに潜伏しつつ捲土重来を期しているという概念だけは、歴史的実在としての悪の蟠踞と同様に、極めて有効で不可欠な概念であるとも考えている訳です。

そもそも、歴史的実在としての悪などという常識では計り知れないようなものが、人間本性から自然に出てくるはずがありません。飽くまでもある超越者によって、ある種の形而上学的な意図の元に、例えば、人類を歴史のうねりの中に送り込んで試練を与え、その精神性を成長させるためになどといった隠された理由によって、ある時人為的に設置されたはずなのです。とすれば、そのような悪の不可欠な対立項としての善も、その姿は今のところは悪より深く隠されてはいるものの、当然、存在しているということにならなければならない。そのような善が存在していないということにでもなれば、人類には最早、自らへの不当な扱いに対しても、人間性を完全に放棄してしまった上で無感覚でいることに自分を馴れさせ、義憤に駆られることも一切ないまま、家畜のように黙々と生活しつづけるか、或いは、自らを不当に扱うそのような悪と共に支配秩序そのものも全て滅ぼし尽くし、更なる混乱の中に落ちてしまって、自分では事態を全く収拾することができないまま滅び去ってしまうか、どちらかしかないということになってしまう。これでは、どう考えても筋が通らない。こう考える訳です。

このことについては、機が熟した時にもっと精密に分析して、その上で記事としてアップしたいと思います。

>うちのブログも、これまでは記事を書こうにも書けませんでしたが、PCが動くようになった今、豊臣秀次と秦河勝の記事を書こうと思います。

豊臣秀吉は、新羅系秦氏である徳川家康と明智光秀、足利義昭の計画に巧みに便乗して彼等から政権を掠めとった人物でした。恐らくは、新羅系秦氏に対立していた、蘇我系や中臣系、百済系、忌部系からなる、新羅系秦氏とは違うもう一つ別の勢力の顔として活動していたのかもしれません。「豊臣」という氏がそれを端的に表しているように感じられます。そう言えば、彼が構想を信長から受け継ぐ形で行った朝鮮出兵の目論見も、新羅系勢力に属する雑賀衆が鉄砲と火薬の製法、使用法を朝鮮にリークすることで、頓挫させられてしまいました。また、大阪城陥落後に豊臣秀頼を密かに匿った薩摩も、豊臣秀頼の子孫として島原の乱を主導した後でフィリピンに避難した天草四郎時貞も、新羅系秦氏に対立していたかの勢力の一角を占めていた可能性が高いとも思う訳です。要するに、東南アジアから江南、半島南西部、列島の太平洋側は、古来から一貫して、ひとつのまとまった地域だったのではないでしょうか?そして、そこにこそ、イエス=メシヤ或いはイエス=キリストの霊統が、従って、実体化した善としてイエスの遥か以前の太古からイエス経由で現在に至るまでずっと大切に継承され続けてきた霊統が、潜伏しているのではないか?私はこう考える訳です。

次に、秦河勝と広隆寺の弥勒菩薩像のことですが、それらを新羅系で邪悪と考える向きがあるようです。しかしながら、あの哲学者ヤスパースの絶賛のことを念頭に置きつつ、広隆寺の弥勒菩薩像を何度もこの目で鑑賞し、その芸術性の異常なほどの高さを確認している者としては、何処かで、本当にそうなのだろうかと感じるのです。広隆寺のものとよく似てはいてもそれとは比べものにならないくらいに稚拙な出来栄えの、あの新羅の弥勒菩薩像の方こそが、広隆寺の弥勒菩薩像を手本にして作られたレプリカなのではないか?「秦氏は実際は、その遺物を見ても分かるように、明らかに、新羅系のはずである。『百済経由で北魏から列島に入ってきた』というのは、一種の経歴詐称だ」という、多くの人が採用している見解はどうも、違うのではないか?そうではなくて、実際に北魏から百済経由で列島に入ってきた秦氏がその影響を後に新羅に及ぼしたからこそ、考古学上の所謂「新羅様式」なるものが新羅に形成されたということなのではないか?こう思えてならない訳です。これもきちんと調査した上で、考えがまとまった時に記事にする予定です。

>それにしても北朝鮮の動向、日本から軍事費を引き出そうとしているだけの気がします。

いかにも見え透いていて、今更注目する気にもならないくらいです。北朝鮮の金正恩一族の属する、世界規模に蟠踞している勢力はどうやら、東アジアの各国民には今はどうしても、これまでにはなかったくらいに強く、ナショナリズムやセクショナリズムを抱いて欲しいと思っているようです。しかし、実際に戦争を起こす意図があるのかについては、また、それだけの能力があるのかについては、何となく否定的な気分が湧き上がってきます。これは、私だけでしょうか?どうやらアジアは、現在、民衆レベルで、如何なる者も抗いようのないくらいに力強く、急速に、一体感を盛り上げているように思えてならないのです。その動きを陰から誘導している、かの邪悪な者達とは全く別の、太古から彼等に対抗し続けてきた何らかの勢力が今まさに、大きく台頭しつつあるからなのだと思われてならないのです。

引用以上。