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広島旅行記~その3 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)後編

2010-08-28 14:04:57 | 放浪記

前回に引き続き『大和ミュージアム』についてご紹介していきます。

今回は大型資料展示室の展示品を中心にご紹介します。

 

まず最初は、戦艦『長門』に掲揚してあった軍艦旗です。

この軍艦旗は、TV番組の『なんでも鑑定団』に出品された物を、石坂浩二氏が評価額の1000万円!で購入されてこの『大和ミュージアム』に寄贈された物なんだそうです。

石坂浩二氏の歴史的遺物に対する愛情とその財力には驚きました。

 

 

次は九五式二型魚雷です。

魚雷とは、水上艦艇や潜水艦、航空機などから発射され、水中を航走して艦船の喫水線下を攻撃する兵器です。

この九五式魚雷は、推進機関の燃料燃焼用気体に純粋酸素を使用した、当時、世界で最も優れたものでした。長射程、高速、大威力で、航跡を殆ど残さないという長所があり、連合軍兵士からは『ロングランス(長い槍)』と呼ばれて警戒されました。

写真の二型は、この九五式酸素魚雷を、潜水艦などに搭載するために小型化したものです。

 

 

この高性能の九五式酸素魚雷も、連合軍に制空権を奪われた太平洋戦争後半には殆ど活躍の場が無くなってしまいました。日本軍の艦艇が魚雷の射程距離まで連合軍の艦船に近付く前に連合軍の航空機によって沈められてしまうからです。

そこで生まれたのが人間魚雷“回天”です。

“回天”は、九五式酸素魚雷の中央部に操縦席を設けて人間の操縦によって敵艦に突っ込むという特攻兵器でした。

母艦となる大型潜水艦の甲板上に積んで敵の傍まで運び、敵艦船の近くで母艦から切り離されて攻撃する仕組みでした。しかし、元々魚雷であるがゆえに操縦が極めて難しく、しかも制空権、制海権共に失っていた大戦末期の状況下では母艦となる大型潜水艦が敵艦船に接触することすら困難で、その多くは母艦ごと撃沈されてしまい、期待された程の戦果を挙げる事は出来ませんでした。“回天”自体は一人乗りですが、一度母艦から切り離されてしまうと生還することが出来ない特攻兵器であり、作戦や訓練中の事故、更には母艦となった潜水艦の乗員も含めると、将来ある多くの若者がこの“回天”作戦により命を落としています。その悲惨な状況は映画“真夏のオリオン”にも描かれています。

 

こんな物に乗せられて出撃して行った当時の若者の悲壮な決意を思うと目頭が熱くなってきます。

 

 

次に紹介するのは特殊潜航艇(甲標的丁型)“蚊龍”です。

この“蚊龍”は、“回天”とは異なり、生還の可能性が残された小型潜水艇で、武装として船底に装備された2基の魚雷が装備されていました。

ただし、実際の運用では生還の可能性は殆ど無く、その内実は特攻兵器と何ら変わりないものでした。

“蚊龍”は日本本土における決戦兵器として戦争末期に大量生産が行われましたが、幸いなことに、実戦での運用は沖縄戦で少数が使用されただけに留まりました。

 

 

“蚊龍”を上から見たところ。

こんな小型潜航艇で、連合軍艦艇がひしめき合う海域に出撃すればまず間違いなく生きては帰れないでしょう。私には出撃することさえ絶対に無理でしょう。

 

“蚊龍”の向こうに見えるのは各種砲弾。左端の一番大きな砲弾が“大和”級戦艦が搭載していた46cm砲弾(弾頭部)です。

 

 

戦艦“大和”と並んで、旧海軍の象徴となっているのが零式艦上戦闘機(零戦・ゼロ戦)ですね。

『大和ミュージアム』には、零戦の最終生産型である62型が展示してあります。

 

 

ご存知の方も多いとは思いますが、零戦は大戦前半まで連合軍戦闘機に対して圧倒的な強さ(もっとも、これには零戦自体の性能だけでなくパイロットの技量が優れていたということもあり、異論もあるのですが・・・)を発揮した旧海軍を代表する戦闘機です。

零戦の前には、その栄二一型エンジンが展示してあります。

 

 

戦争中盤までは連合軍戦闘機相手に活躍した零戦ですが、連合軍が次々と圧倒的多数の新型戦闘機を投入してくると苦戦を強いられるようになり、戦争末期には特攻機として使用されています。まさに旧日本海軍の栄光と没落を象徴するような戦闘機でした。

 

 

この零戦62型は、愛知県明治基地の第210航空隊の所属機で、大戦末期の1945年8月6日夕刻、訓練飛行中にエンジン不調を起こして琵琶湖に不時着、水没していた物を京都・嵐山博物館が1978年に引き上げ、かつて零戦の整備士・搭乗員だった有志の手によって復元された物です。長く嵐山博物館に展示してありましたが、嵐山博物館が閉館されると和歌山の「ゼロパーク」に引き取られ、野ざらしの状態で展示してあったそうです。しかし、「ゼロパーク」も閉館に追い込まれるに至って、この『大和ミュージアム』に引き取られることになったのだそうです。数奇な運命を辿った零戦なのですね。

 

零戦の操縦席です。

かなり狭く、大柄な私なら長時間の操縦は無理だと思われました。

ソロモン諸島上空では、こんな狭い操縦席に閉じ込められて3時間もの飛行の後、米軍機との熾烈な空中戦を行い、さらに3時間かけて帰還するという過酷な任務を毎日こなしていたというのですから、当時の日本軍パイロットの超人的な気力と体力には驚きを禁じえません。

 

 

零戦52型から装備されるようになった九七式7.7㎜機銃(奥)と三式13㎜機銃(手前)。

零戦は開発当初20㎜機銃と7.7㎜機銃をそれぞれ二門ずつ搭載していました。しかし、戦争中盤以降、連合軍新型機が重装甲となった事に加えて、戦闘機の戦術がそれまでのドッグファイトから一撃離脱法に変り、火力不足が指摘されるようになった事から、7.7㎜機銃に替えてこの13㎜機銃が1~3丁装備されるようになりました。

ちなみに、九七式7.7㎜機銃はイギリスのヴィッカースE型機関銃、三式13㎜機銃は、アメリカ軍のM2ブローニング機関銃のコピーと言われています。

一時期流行った“架空戦記”の多くは、日本がアメリカと互角以上に戦うという設定になっていましたが、笑止千万、全く馬鹿げた妄想だと思います。

機関銃すら自国で開発することが出来なかった当時の日本が、多くの家庭に自動車、冷蔵庫が普及していたというアメリカ相手に戦争するなんて実に無謀な事だったということがこの事実だけでも解りますよね。

 

 

最初は戦艦『大和』と零戦見たさに好奇心から見学を始めた『大和ミュージアム』でしたが、展示品の数々と、その説明を読み進めるうちに先の大戦が如何に無謀な戦争であったのか、この無謀な戦争を始めてしまった政治的判断の誤り、そしてその政治的判断の過ちの代償として死地に赴かなければならなかった将兵の悲壮な運命を考えずにはいられませんでした。

 

敗戦から今年で65年の歳月が過ぎました。

戦争を経験した世代が年々減る一方、日本の核武装化を始めとして勇ましい事を唱える人たちが現在の日本に増えつつあるように思います。

しかし、世界最強と言われた戦艦『大和』も、精強なベテランパイロットが乗る無敵と謳われた零戦も結局日本を守ることは出来ず、最後は両方とも特攻という形で多くの人命と共に消えて行きました。

このことは、軍事力だけでは国や国民は守れないという事を後世の私達に教えてくれているのではないでしょうか?

一番大切なことは、国が政治を誤らない様に平時から国民が政府・政治家をしっかりと監視・監督して行くことだいう事を『大和ミュージアム』の見学を終えて、思いました。

 

先の大戦でお亡くなりになられた350万人とも言われる戦没者の方々に合掌。。。

皆様方のお陰で、日本はこのように繁栄し、私達は豊かで自由な生活を楽しむ事が出来ています。どうか安らかにお休み下さい。。。

 

 

次回は最終回、錦帯橋と厳島神社をご紹介する予定です。


コメント

--------これより以下のコメントは、2013年5月30日以前に-----------
あなたのブログにコメント投稿されたものです。

まつまえ [2010年8月28日 23:31]
こんばんは~。
前編で「大和ミュージアム」面白そう!行ってみたい!!なんて思ってましたが、この後編で、そんな気持ちで行ってはいけない場所だな~と感じました。
でも、やっぱり行ってみたい所です。
行く機会があれば是非と思うのですが、展示品と説明を見てまわって、どのくらい時間が必要な施設なのでしょうか?
まめ八「 [2010年8月29日 7:44]
まつまえさん、こんばんわ。
いつもコメントを頂き、有難うございます。
 
あ~・・・変なプレッシャーをかけてしまったみたいですね。申し訳ございません。m(._.)m
でも、“大和ミュージアム”は、難しいこと抜きで十分楽しめますし、真ん前には“てつのくじら館”、市内では海軍カレーや海軍カツレツなどのグルメも楽しめますから機会があれば是非いかれてみて下さい。
見学時間については、ざっと見れば1時間半。説明やDVDなどをしっかりと観て回るのであれば3時間、子ども達を体験コーナーで遊ばせるなら4時間を見ておけば充分だと思います。
なお、“大和ミュージアム”のHPに見学のお勧め時間配分なるものがありますのでそちらも参考にして下さい。o(^▽^)o
http://www.yamato-museum.com/access/course.html
EP82-SW20 [2010年8月29日 22:27]
こんばんは。
「真夏のオリオン」は先日TVでやっていましたね。
録画したと思いますが、まだ見ていません。
それ以前に、「出口の無い海」を見ています。
一言で言えば、戦争で人が死ぬ事の無意味さを実感させてくれる映画でしたね。
それ以前に「魚住少尉命中」というドラマを見た事があります。
タイトルからして「一人の人間が散っていった」事を思わせる悲惨さが伺えると思います。
このドラマも、まさに「無情」を思わせてくれました。
この二つの作品、ネットで検索すればヒットしてくれましたよw
おぺ [2010年8月29日 23:32]
こんばんは。
回天や特攻前の手紙などの展示は重いものがあり、まめ八さん同様、自分も目頭を熱くしてしまったことを思出しました。(自分はミュージアムに入るまでそのような心の準備をしていなかったのもありまして…)
まめ八さんのシメの言葉にもあるように、多くの犠牲者の方々の礎のもと今の平和があると感じます。そう考えると恥ずかしい国のあり方や生き方はできませんね。
まめ八 [2010年8月30日 23:03]
EP82-SW20さん、こんばんわ
いつもコメントを頂き、有難うございます。

『出口の無い海』はまだ観た事がありません。
機会を見つけて鑑賞したいと思います。
魚住姓は熊本県の北部に多い姓ですから多分、魚住少尉も熊本県出身者ではないかと推測します。
ただ、『男達の大和』や『俺は君のためにこそ死にに行く』など、戦争を美化する映画が増えてきている事には少し危機感を持っています。
こうした映画を作る人たちの意図は、必ずしも特攻で命を落とした人たちの遺志とは違うような気がします。それは知覧の特攻記念館に大量に残された遺書を見れば解ります。
以前、某東京都知事が“特攻と自爆テロを一緒にするな!”と言って激怒した事がありますが、私は同じだと思います。何故なら、自分の大切な者を守りたいが故の最後の手段であると同時に、純粋な若者の命を自らの目的遂行のために利用している人間がその後ろに控えているところが共通しているからです。
まめ八 [2010年8月30日 23:15]
おぺさん、こんばんわ。
いつもコメントを頂きまして有難うございます。

そうなんですよ。あの遺書を書いた時の当人の気持ちを考えると何も言えなくなってしまうんですよね。(T△T)
EP82-SW20さんのコメントにも書きましたが、某東京都知事のように、特攻を美化してはならないと思います。実際に特攻で亡くなった方々はそれを望んでいたのでしょうか?
私は違うと思います。私が特攻に行かなければならなくなったら、こうした行為が今後二度と再び繰返されない事を望んで死地に旅立ったと思います。それを後世の人間が、何を意図してかわかりませんが映画にし、ことさら美化して描く事は特攻でお亡くなりになられた方々への冒涜だとさえ思います。
もし、某知事がそこまで戦没者への哀悼の気持ちが強いと言うのであれば、政治家としての自らの行いや発言、及びタカ派的とも受け取れる信条を改めるべきでしょう。
にーなな [2010年8月31日 22:52]
こんばんは。
先日に引き続き拝見させていただきました。
回天。。なぜこのような兵器が開発されてしまったのでしょう。。なにか納得のいかない気持ちが・・
零戦のプラモデルを少年の時に組み立てたことがありましたが、だんだんと時を経て大戦の事実を知ってから、複雑な心境になったことがありました。

機会を見つけて、是非とも訪れたいスポットですね。
まめ八 [2010年9月1日 21:30]
にーななさん、こんばんわ。
連日のコメント、有難うございます。

回天という兵器は、戦局が激しさを増した1942年のガダルカナル島を巡る戦いの頃から前線の下級将校から提案されていたらしいです。けれどもその頃は前線が日本本土から離れていた事もあり、その提案は却下されたそうです。ところが、日本軍が連戦連敗するようになり、アメリカ軍の本土上陸が避けられなくなってくると、前線の将校から再び上申があり認められることになったそうです。回天の生みの親、黒木博司大尉、仁科関夫中尉はそれぞれ黒木大尉が訓練中に殉職、仁科中尉は最初の回天攻撃で出撃し戦死しています。
終戦までに148基の回天が出撃しましたが当然全ての搭乗者が戦死されています。
なお、回天という名前は、“天を回らせ、戦局を挽回する”ということで付けられた名前なんだそうです。
人命よりも大義という得体の知れないものが大切にされた時代の産物なんでしょうね。