スカーレット手帖

機嫌のいい観客

ジャンヌ・ダルク -10/12の聖少女を観た話-

2014-10-20 | 観劇ライブ記

これを観たかったんだよ。
ジャンヌ・ダルクを観てきました。
10/12お昼公演でした。


本当に素晴らしかった。
あまりにすばらしかったので、終演後すぐに、「おかわり」しに行こうかなと思った。
むしろ、行く気満々であったよ。
この夏、高ぶりを求めて、同演目のために10回劇場に向かった身からすると、
もう1回観ることなんて逡巡するようなことではないのだ。

だって、スケジュール的には、まあ、行ける。
そしてお金は、まあ、いつものごとく火の車なのだが、本当に好きなものがあれば
社会人であればお金は何とかなるものなのだ。(と、私は信じて生きてきたよ。)

でも、である。
私は、あの少女が神の声を聞いたときのまなざしから、戦場での可憐で孤高のたたずまい、
聞こえなくなった絶望、そして絶命の瞬間までの一連の流れを見てしまった。
もう話がわかっている。
その上で、もう一度まっさらな気持ちであれを追えるのか?

どうも感じるに、演劇を見るというのは一つのドキュメントを観に行くことに近い気がする。
なんでしょう。Showというよりは、happening という感じだ。
その時の自分の感情の動きまで含めて、予測不能の、1回限りの、事件を観に行っている。
その緊張感、ストレス、高揚を、味わう遊びである。
すごい贅沢だな、オイ。

130名を超えるという出演者、時に民衆、時に兵士、時に腹に妖怪のような修道士たちとして
舞台を駆け回るあの迫力と、その中心で輝き、ぎらつくプリンシパルの面々のたたずまい。
迷いのない目をした有村架純のジャンヌダルクと、
齢50手前にしながらティーンのようなはかなさを見せつける王子、ヒガシ。
誇り高いフランスの兵士たち。(矢崎広よかったわ~)王家の正義とジャンヌの正義。
あの衝撃を、もう一回私は心を砕きながら観ることが出来るのであろうか。

平たく言うと、しんどい。
正直、しんどい。
心を持っていかれすぎる。
テニミュは音楽で表現する、ミュージカルだから耐えられたのだろうか。
あと、絶妙な未完成感があるから。(と、私が言うのもなんかおこがましいんだけど)

私のジャンヌはあのとき花開いて、あの時絶望を超え、あの時信念のもとで死んでいった。
そう思うことにしました。
彼女はとても美しかったので、それでじゅうぶんなのでした。


という感じで、いろいろと今回は「同公演を複数回観に行くこと」
というものを考えてしまった。
てかふつう1回観に行ったら十分なんじゃね?
というそもそも論にはフワッとした布をかぶせつつ、
過ぎたるはなお及ばざるがごとし ということで、舞台鑑賞にも適量があるんだと思う。
ようやくそんなことに気付いたよね。私ってば。