人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りと共なる生活

2022-11-23 10:08:12 | 祈りと瞑想
改まってなんですが、私にとっての精神的な道というのは、具体的にどういうものかと言うと...特にどうということはありません(笑)。
ある一定の時間、決まったやり方で何かの行をするでもないし...
ただ、祈りというか、それも決まった祈り言葉とか祈り方がある訳じゃないですが、日常生活の狭間に、神的なものに意識を向ける、向いちゃう(これが私にとり、広い意味の祈りです)ということがあるのです。
すると、神的な現臨に与るということが!...
”祈ったって何になるか!、他のやり方を加えなきゃダメだ!“、なんて言っている向きは、自分が行う行や努力によって、そういうものが開かれると思い込んでいるのです。
だから一日一時間とか何時間とか量をはかるように行に励んだりするのでしょう。
神的なものに意識がつながるのは一瞬かもしれないのに(実際、あるんだ!)...
こちらがやる何かじゃなくて、思いを超えたものは、それ自ら臨むことで開かれるのです。
ほんのちょっと意識を向けただけで...祈りをする...いや、しようとしただけで!(本当にこりゃ、驚くべきことと言う他ありません!)
こういうことは、寝ても覚めても、歩いていても、読書していても、ブログ書いていても(!)...日常の何時に起こるか計り知れないのです。(だから、思いを超えているんだ!)
五井先生は、そこのところを“寝ても覚めても、常に神を思い、神に思いを入れ、心にその響きを満たして起きなさい!“、と教えていたのです。
「世界平和の祈り」というものを打ち出したのは、一宗一派の祈りを超越したものを指し示そうとしたのでしょうが、それも宗我的な思念で垢がついたようになってしまったようです。
その根本的精神からかけ離れた、信者たちの依存的、盲信的、狂信的な思いがダメにしたのです。
あるいは、世界の滅亡とか陰謀論などの地獄的思念など...こういう思念にトラワレているのだから、何のための「消えてゆく姿」の教えだか分かりゃしません。本当に情けないことですよ!
五井先生が主眼にしていたのは、一定時間、行に費やすようなことじゃなくて、このような日常の狭間の、“思い出した時でもいいから!”、という片手間行(?!)にあって、その方が効果的と言われていましたが、その通りだと思います。
私は、”この祈りでなければ、このやり方でなければ!”、などとおこがましいことは言いません。
宗教的な人には、分かりやすいでしょうが、各自がもっとも、慣れ親しんでいる祈り、もっともこころ惹かれている神仏に思いを向けられたらいいと思います。(特定の宗教を持たない人にはもっと分かりやすいかもしれません)
ただ、おざなりの、形式的、因習に堕したものなら、祈ったって何にもならないでしょう。
そういう思いは突破されねばなりません!
それには、祈りを深めねばなりません。量ではなく質です。意識的になることです。
祈りの根本義に帰る、神的なものに観念を超えて、その”臨在”を通して実存的に帰る、交わることです。”思いが消えてゆく”、というのは、このことと別にあるのではありません。
こういうことは、多少とも、差し出がましいことがキライな私とは裏腹の、伝道的な思いから発しているのでしょう。
けれど、そういう思いを超えて、一にしてすべてなるあの御方に意識が向けられることで、こうした願いが出て来てしまうようなのです!
それは、自ずと意識は普遍性に向けられるということなのでしょう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神の愛は失われていない! | トップ | 神は一なるもの »

コメントを投稿

祈りと瞑想」カテゴリの最新記事