人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

隠された祈りの道

2023-09-05 10:20:34 | 人生の教師
ある修行法によって道を求め続けてみても、何ら変化も恩恵も感じられない、という求道者もおられるでしょう。
大体、2.3年も経てば、ある程度の“メド“も立つものでしょう。
そのような状態が惰性のようになって、ズルズルと歩んでしまうほど人生において無駄なことはありません。
五井先生の白光会では、先生指導のテープを聴きながら、統一行をするというのが、主流の修行法らしいです。
私には、心地よさとかは感じるくらいで、音声として、どうしても外の方に意識が向けられてしまうせいか、それ以上に深くなったり、“何かが開かれる“感じがしてこないので、不向きに思えるのでした。第一あれは、所詮再生されたものであり、ライブなものではないではないか?
五井先生原理主義みたいな人は言うかも知れない...“五井先生の道の修行法はあれしかないのだ!“...そんなバカなことは無い!...先生自身がそう言ったか?...だから私は固く、狭い信仰者とは関わりたくないのです!
前にも書きましたが、これは、行法というものではないけれど、先生は至るところで、日常、恒常的に神に思いを向け、入れる、思いを常に神的なものに満たしておくことを説いていたのです。
これは、私は数ヶ月で身に付きました。そうしているうちに、何となく愛、平安に包まれる、これが大きいことなんです!...何か神秘的なこと、奇跡的なことを追い求めていたら気が付かないかもしれませんよ。
ただし、これも“世界平和の祈り“に則ったものじゃなかったですけどね!...“御心のままに“というようなニュアンスの...言葉を称えるのでなく、心に響かせるのです。とにかく、そのように転化しやすいものであれば、何でもいいのです。
ある意味で、これこそ超宗派的な祈りと言えるでしょう?
それが如何に広く、深いものであるか!...固く、狭い信仰者には絶対に分からないでしょう!
ずっと、“このやり方でなければ!“と囚われ続けている人が、結構著書の中に散見するにも拘わらず、この祈りの道を知らない、否知っていてもやろうとしないのは、実に勿体ない話ではありませんか?
この方法なき祈りは、その後現臨感覚の芽生える端緒となったものであり、今日も尚私の日常に生き続いているものなのです。
私が、このように容易く?こうした無為的な道に導かれたのは、既に他力的な祈りの道を受け入れやすい、心的土壌が多分あったからだと思います。
自分の無力さを知り、思考に囚われることの苦しみを味わってきたこと...それが種となり、思いを超えたものによって開かれることにつながっていったのです。

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