人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨の執りなし

2023-08-02 10:16:26 | 人生の教師
「説明はもうやめます。一人ひとりが聖霊を受けることです! 私のような卑しく罪深い者にさえも、神様は聖霊を注ぎたもうたのですから、ましてや皆様には注がれるに違いない」
(手島郁郎「ヨハネ伝講話第二巻」/手島郁郎文庫)

現臨という言葉は、神の、キリストの、聖霊の現臨、という風に表現されるように、主としてキリスト教で使われているものから借りているのです。”現存”という言葉でもいいでしょう。
英語では”presence(プレゼンス)”。
ああ、もうこの響きが伝わるだけで、その現実に入れられてしまう!...祈入(小池辰雄)
現実に現臨、現存しなければ、神もキリストも如来も抽象的に対象化されて信じ仰ぐだけのものになってしまいます。
え、聖書の神ならともかく、天照大神や阿弥陀如来もか?...そうです!
だから、いくらキリストは神の独り子、救世主で、このものを信じないと救われない、と観念的に信じてたってしょうがない!、とそう言っているんですよ!
教会では、”イエス.キリストは今も生きたもう!”と説かれています。
それは、現実在らしめるものなのだから当然のことです。キリストのみならず、こちらも!
現臨にあって、そう言い表すことが出来るのです。
それは教理のことじゃない、何を信じるかということじゃない!...現に受けるかどうかが、又受けるということは一如になるということ、それが問題なのです!

手島郁郎先生や小池辰雄先生の講話などに接していつも感じさせられることは、先生たちは、この場合は勿論、キリスト教的に聖霊のことですが、この現臨の執りなしをされていた、ということです。
手島先生などは、カリスマ的な資質を持っておられて、お弟子さんたちには、絶対服従を強いるようなところもあったようですが、それも聖霊の執り成しというものあってのものだったでしょう。
小池先生の方はもっと身近に接する機会がありましたが、やはり”先生!”と慕われる存在ではありました。
それは、宗教的な集まりでは特に珍しいことではありません。
しかし、両先生とも”このことを欠いてしまったら、一体何の集会か!”と力を注いでいたのは、この聖霊の執りなしにあったに違いありません。
これは、やはりその主要な活動の一環だった、文書、著書の発行でも同じことが言えるでしょう。(本を読んだだけで、聖霊の現臨に与れるのか?...あるだろう!...少なくとも私はその片鱗に触れたことがあると言っていいでしょう)
先生方は、そのように尊称され、その教えを玉条の如く崇められることを本意にしていたでしょうか?
小池先生からは、”私が語るのは教えではない!、告白だ!”という言葉を何度も聞きました。
先生存命の頃はどう違うのかよく分かりませんでしたが...
こうして、不肖私自身がいつも現臨について生意気にも書いていて...いやもう、先生方はこれを!、この言葉に言い表せないこの現実を伝えようとされていたのだなあ、と感じさせるものを覚えています。
先生、教えと言われているものの、向こうにあるものを受け取らなければ、それは本当に今も生きたものにはならないでしょう!
それが現臨にある、ということなのだから!...


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