人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

十字架ー無と全託

2023-08-03 10:20:23 | 人生の教師
真摯に精神的な道を求めている人なら誰でも、自分の思いから離れること、無心になる、空の境地になる、といったことがそこに横たわる大きな関所のようにも大きな問題だ、ということはそれとなく知らされているでしょう。
そうして、修行なりに取り組んだりするのでしょうが、いつも言うように、中々自分からはそうならないという現実に突き当たってしまうのでしょう。そう思っている自分を超えられないのだから当然のことなのです。
私には元より、そうした自力修行の気根など無いので、心がそっちには向かなかった!、というより手島、小池両先生を通じて、聖霊による恩寵を受ける道があることを知らされていたのです。
とはいえ、私は実際に形の上では(短い間ですが)小池先生の門をくぐることになった訳ですが、先生の説かれる”キリスト道”に、キリスト教の枠を超えた、普遍的なものが志向されているのを感じつつも、どうしてもそこにキリスト教臭が払拭されないものも感じていて、一歩踏み切れないでいたのです。
それは、手島先生には見られないもので、先生の道のある意味で中核的な部分、”十字架”の教え(?)に表れていたと思います。いくら”教えでない道だ、告白だ!”と言ったって、それはキリスト教の教えではないか?...そうでなきゃ、何で十字架なのか?
確かに、小池先生は、他の、ほとんどのキリスト教の先生と同じように、十字架を贖罪論と結びつけて説いたこともありました。
正直、非キリスト者を自認していた?私には直接関わらないことであり、どうでもいいこと、無理に信じる必要のないものだったのです。
しかし!...私は何度でも告白しよう!...これは、受けなきゃ分からない!...これが内包しているものは、十字架という狭い、キリスト臭のする言葉に惑わされては、この普遍に開かれた教え、否それはいくら観念的に信じ込んでいても、”体受”しなければ明らかとならない”道”そのものだ、ということを!
十字架と聖霊は切り離すことは出来ない!...これは聖霊自体の、我々の思念を無化させるハタラキを伝えるものだったのです。実にそれは、”聖霊を受ける”という一言に集約されるものでしょう。
然るに、何故先生は、そこに十字架というものを強調されなければならなかったのでしょうか?
それは、ただ聖霊を受ける、ということの上に、何ものか...自分の観念、信念、力、意志的なものを付加するもの、恩寵にゆだね切ることの無い、ある傾向が見られたからではなかったか?
自分の思い、力を無化するハタラキの前には全託するしかない、そうならざるを得ないのです。
先生の説かれた十字架は、無と全託を象徴していた!...そのように感じてなりません。
それは、普遍的に神の道を象徴していると言っても過言ではないでしょう!
十字架にぶっつぶれなければ、神の道は開かれない!
象徴はそれ自体にトラワレることなく、如何ようにも表示され得るものですが、それが何を指し示し、内包し、そして体受するかどうかが肝心なのです。
聖霊、ダンマ、タオ...名称は何であれ、こちらがそれを得ようとしたり、なろうとする、出来そうにない道でなく、そのものがこちらを無にして、通ってゆく道は万人に開かれている道なのです。
十字架の道は、全くキリストキリスト教の枠を超えているもの...小池先生を思う度にこの真理が表に顕わにならんことを願わされるのです...。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 現臨の執りなし | トップ | 守護霊、聖霊、真我 »

コメントを投稿

人生の教師」カテゴリの最新記事