人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

誰が見るのか?

2022-05-08 10:59:33 | 意識、照明
前回取り上げた「禅と福音」という本の中で、主に南直哉さんの口から遠慮無しに批判の対象にされていたのはテーラワーダ仏教なのでした。有名なA長老についても、その“釈迦はこう言っている、経典にはこう書かれている“、といった権威におもねるような言葉を引き合いにして、「私には関係ない!」とバッサリ!...
そうした定見にとらわれた言説というのは、すべての宗教について当てはまるものなので、あの流派だけを殊更挙げつらうことも無いように感じたのですが...
ただ、その観察、”見ること”に重きを置いた、「ヴィパッサナー瞑想」に関して、観察する主体が「普段の人間の観察」からいつの間にか「何か真理を示す超越的状態」に変わってしまうこと...私も読んだことのある「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)では、その自分以外に認識している主体らしきものを「本当の自己」ということにしていることを問題にしているのは、とても重要なポイントのように感じています。
私はその瞑想は、ほとんど行じたことが無い門外漢なのですが、瞑想と言えば、ほとんど“やり方”など無いと言っていい、”金井メソッド“なる瞑想には馴染みがあります。
それは、人為的なやり方など付け加えなければ、自ずと思いから離れられる、という無為的な“やり方“を主眼にしたものだ、と私なりに理解していたのですが、最近では、その“何も思っていない状態の自分を見る”、というやり方が加わっているらしいのです。
う~ん、これはですね、現実に思いが自ずと離れてゆくプロセスにあっては、そんなことは不可能です!...一体、誰がそれを見るのか?
不可能ということは、現実にそのようには意識が向かない、ということを意味しています。
私は見ることは出来ないですが、私を超えたものに見られているという感覚はあります。
これを観察と区別して”照明“と呼んでいるのですが...もしかして、これがこのやり方のネライなのでしょうか?
しかし、見る私でない超越的なものは、“本当の自己”なのかどうかは分かりません!
安易に定見に委ねてしまうことは、“本当の自己の問題”からズレる、ということを南さんは言いたいのでしょうか?
そして、どこまでも「超越的な視点」の介入をゆるそうとしない南さんは、そうした「メタレベルの意識」は、排除してしまうのだそうです。
定見、予見となる観念なら排除することも可能でしょう。
しかし、意識レベルでそう感じているものについては不可能なはずなのです!
それが思っていることと思いを超えたものとの端的な違いなのです。
これについて南さんは、別のところで「私のリアリティの定義は、”こちらが拒否しても思いどおりにならずに現前してくるもの“です」と言われます。
な~んだ、南さん、現臨の弁証みたいなこと言ってるやん?!
要するに、宗教でもスピでも、本来分かるはずのない超越的なものの“ラベリング”が横行し過ぎているということなのでしょう。
氏は又、“言語化”というものにこだわっておられますが、思っている自分が思いを超えたものを言語化するなど、誰がするんでしょうか?!
そこで多くの場合、象徴を借りて、仮に言い表すということが為されているのでしょう。
そういう含みが感じられるか、決めつけたような厚かましさが感じられるかどうか...
借(仮)りたものなら神や守護霊や真我に登場して頂くのもアリなのかと思えるのですが...
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