人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神に意識を向けると...

2022-08-16 10:22:58 | 求道、探究
“神につながるには、思いを超えなければなりません!
欲望を無くさなければなりません!
心を静めなければなりません!“...

な~んてことは言うつもりも無いし、自分でそうしようとして、そうなったことなど一度もありません!
いつも言っていることは、それらのことは、神が臨むことでそうなる、ということなのです。
それで、それらが無くなるということも無いですが、少なくとも、神が臨む時はそうなっているのです。
では、その神が臨むには?...これは言わずもがなのことですが、その気が無ければ無理でしょう!
これは当たり前のことで、どんなことでもそうですよ!...働くことも、遊ぶことも、メシを食うことも...これは意識がそういうことに向くということなのです。
だから、神に意識が向く、とか向けられるとか言うのは、難しいも何も、全く自然に行われることなのです。その気さえあれば...
神とつながりたい?...ホント~に?、じゃあ、もうつながっているはずでしょ?
純粋に、キリストでも弥陀でもいいですが、神そのものに意識が向いているのであれば...
ところが、宗教の周辺には、神そのものに向けられないものでいっぱいなのです!
教団、教義、人間教祖...そして上記したような、自分をどうとかしようという思い...つまりは自分に意識が向けられているのです。(この言い方は、ちとややこしくて、“ありのままの“自分に意識が向けられることは、かなり重要なことで思いを超えられるということはあるのです)
このように、神でないものに囚われれば、囚われるほど神から遠のいてしまうことになるのです。
要するに、いつまでも思いを超えられない!...だから、思いを超えせしめるもの、神を求めるに如かず、ということなのです。
これでいいのだ!...いや、神を求めることならきっとそれでいいのでしょう?
ただ、私について言えば、あまりにも先の自分を何とかしようということに(それ自体は、社会生活を営む上では必要なことで、否定さるべきものではないでしょう)意識が行ってないようでもあります。
それは多分、思いに、欲望に囚われたまま、心が乱れたままであっても、一度神に向けられたなら、ぱっと、それから離れられることを何度も経験しているからでしょう。
しかし、これでいいのか?...フツーの意味で進歩も成長も無いではないか?...
“ま、いいんじゃないか?“
な~んて、自分で思っているんなら世話は無いですね?...いや、待てよ?...
“お前がどんなにダメで、役立たずでも、私を忘れなければいいんだ!“
って、どっかから声がするような...
自分がダメだとか、バカだとか考えているんなら、神に意識を向けたらいい!
いや、自然に向いてしまうだろう!...そうかあ!
ネガティブなもの、不調和なものはそのままで、神的なものに化されてゆく...
と、いう風に今日も書いているのですが...書いてみるものですね!...一際意識が向いてしまいますから...
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