人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

地獄の福音

2022-08-19 09:58:44 | 宗教
神は愛ですか?
それとも...恐ろしいですか?
神の裁き、地獄送り...
永遠の生命に与る?...それとも永遠の呪い?

私は、神を信じるという人と何度も接してきました。
長年、熱心に信仰生活をしてきたという人に、いつもここで書いてるような、神的なものの直接体験のことを向けると、大抵顔が引きつって、恐怖に駆られた表情になってしまいますよ。
“神を現実に受け入れるってことは、そういうことじゃないのか?!“、って語気を強めると、まるで断罪を受けた犯罪者みたいになってしまうのです。私なんかより比較にならないほど、克己心、道徳心があるように見えるのに...
神を本当に求める、受け入れるとはどういうことなのでしょうか?...上のようなやりとりに接して根本的におかしいものが感じられるでしょうか?
神的なものに出会うということは、ある大きな真実、疑いようのない真実を示されるだろう、ということは、多くの人には感じられるでしょう。
これが裁き、最後の審判のような恐ろしい事態を想起させるようです。
ことに熱心な宗教信者、特に狂信者などは、“この教え以外に真実は無い!“、と頑なに信じ込んでいたことが覆されてしまうことに、言い知れぬ恐怖を覚えるようです。
言い換えれば、その頑なに信仰を固守することは、その神の裁きから逃れるための隠れ蓑にしているのではないのか?
このような信仰は、最初から恐怖に基づいているのです。それは、罪の意識が根底にあるのでしょう。
それは、取りも直さず、罪なる自分自身の本当の姿を直視出来ない、受け入れられないという思いに他ならないでしょう。
又は、信仰者でない多くの人には、“これが私なんだ!“と信じていた自分像が崩壊する、という恐れを持たれるでしょうか?...いや、単純に思考が無くなるという恐怖でしょうか?
そりゃ、コワイですよ!...それもただ思ってるだけじゃなく、現実にそうなるかも分からないという局面に立たされたりでもしたら!...そりゃ、地獄の恐怖に違いない!
これは、思いを超える、ということと隣り合わせのものですが、そこに言い知れぬ恐怖があっても、そこを超えないと、神に出会うことは叶わないのです。
それでも神を求め、受け入れたいですか?
と...ここまで書いてきて、もっとも肝心なことには触れていません!
そういうことと言うのは、もう言葉では言い表せません!...言ってるけど...
神は愛である、神を本当に受け入れるということは、愛、平安、リアリティに与ることなのです!
神を恐ろしい裁き主のようにしか感じていない人間は、観念でしか神を知らず、それに立て込もっているだけなのです。
神について語られるもっともらしい話には、もっとも肝心なことが抜け落ちているのです!
それでは、絶対に幸福に与ることなど出来ません。いや、不幸だ!...地獄を恐れているようだけど、既に観念地獄に落ちてるみたいじゃないですか?
それなら最初から神を認めようとしない無神論者の方がはるかにマシというものですよ!
神に恐れを抱くほど不幸なことはありません。(畏れるものではあっても)
すべての幸福は神から来るのですから!...
神は思いを超えている...神への恐怖の思いは、神を受け入れることで消えてしまう...否、それは、どうしても神を受け入れられない、こちらの思いを超えて、神の手に抱かれることなのです!
すべての思いが消える訳じゃないでしょうが、少なくとも私は、我が主の”裁きによって”罪の意識から解放されたのです。

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