ネットで、”禅と瞑想はどう違うのか?”、とかいくつか書かれていたのですが、それぞれの立場から“あっちよりこっちの方が優位なんだ!”、式のことに偏っているようで、それだけであまり関心が向かなくなってしまいました。
又、同じ仏教でも禅とヴィパッサナー(瞑想!)の違いなども同様な感じだし、同じ禅でも臨済宗と曹洞宗に大別されるように違いがあって...ああ、もう、ややこし!...理屈なんかどうでもええから坐ったらどうかと言いたくなりまっせ!
このことについて、玉城康四郎先生は、「瞑想とは、パーリ語で“jhana(ジャーナ)“、すなわち禅である」(「仏教の思想ー4禅仏教」/法蔵館刊)と明快に述べられています。これには”何が違う、かにが違う”といった議論も黙らざるを得ないでしょう。
禅は、禅宗のそれに限定されるものではないのです。仏教については、ブッダの瞑想にその起源を求められるでしょうが、その原態というものは、分からないながらも、瞑想となるとあまりに多岐に渡って煩雑になってしまいますが、残されている坐った姿勢のブッダ像から、それは坐る瞑想であったことは想像出来るでしょう。
しかし、玉城先生も述べられているように、重要なことは、その形にあるのではなく、「禅(瞑想)に入っている全人格に形なき命~ダンマが顕わになること」にあるのです。
ダンマの受容。そしてその悟入を裏づけているものは、ダンマ~如来の力によることなのです。
禅宗などで伝統的に行われている、師から弟子への法の相承、相伝の真の意味もここにこそ存しているのでしょう。
この意味では、全く禅とは無関係?ですが、金井系一郎先生が提唱している、その形なき波動(そう呼んでいた)を受容することを重んじた瞑想がその原態に近いのではないかと思われます。
この原態が失われたところから、先のような瞑想の形ややり方を巡る、又はあまり現実に即していない抽象的な観念に基づく議論が生まれるのでしょう。
その現実というのは...例えば、こうしてぼか~んと禅と言わんか瞑想と言わんか、坐ろうとするでしょ...すると、あっという間に、いつの間にか思いが離れて、何か三昧風な感じになってしまいます。...こうなると、ある一定の足とか手の組み方とか、呼吸法とかは手がつかなくなってしまいますよ!
“そんな自己流の訳の分からんやり方ではダメだ、伝統的に守られているやり方に則らなくては!“、なんて言われても、“自ずと“そうなったので自己流も何も無いし、そういう方には現実に意識が向かないから無理だし、そうすると第一又、あの感覚が無くなりそうだからイヤですね!
人為的なものと無為的な違いというものはどうしようもありません。
逆に禅と瞑想の違いなんて全くどおってことないと思えますよ。いつも言ってるように祈りと瞑想の違いなども...
ダンマ、聖霊、現臨...形なき命に尋ねるべし!...
又、同じ仏教でも禅とヴィパッサナー(瞑想!)の違いなども同様な感じだし、同じ禅でも臨済宗と曹洞宗に大別されるように違いがあって...ああ、もう、ややこし!...理屈なんかどうでもええから坐ったらどうかと言いたくなりまっせ!
このことについて、玉城康四郎先生は、「瞑想とは、パーリ語で“jhana(ジャーナ)“、すなわち禅である」(「仏教の思想ー4禅仏教」/法蔵館刊)と明快に述べられています。これには”何が違う、かにが違う”といった議論も黙らざるを得ないでしょう。
禅は、禅宗のそれに限定されるものではないのです。仏教については、ブッダの瞑想にその起源を求められるでしょうが、その原態というものは、分からないながらも、瞑想となるとあまりに多岐に渡って煩雑になってしまいますが、残されている坐った姿勢のブッダ像から、それは坐る瞑想であったことは想像出来るでしょう。
しかし、玉城先生も述べられているように、重要なことは、その形にあるのではなく、「禅(瞑想)に入っている全人格に形なき命~ダンマが顕わになること」にあるのです。
ダンマの受容。そしてその悟入を裏づけているものは、ダンマ~如来の力によることなのです。
禅宗などで伝統的に行われている、師から弟子への法の相承、相伝の真の意味もここにこそ存しているのでしょう。
この意味では、全く禅とは無関係?ですが、金井系一郎先生が提唱している、その形なき波動(そう呼んでいた)を受容することを重んじた瞑想がその原態に近いのではないかと思われます。
この原態が失われたところから、先のような瞑想の形ややり方を巡る、又はあまり現実に即していない抽象的な観念に基づく議論が生まれるのでしょう。
その現実というのは...例えば、こうしてぼか~んと禅と言わんか瞑想と言わんか、坐ろうとするでしょ...すると、あっという間に、いつの間にか思いが離れて、何か三昧風な感じになってしまいます。...こうなると、ある一定の足とか手の組み方とか、呼吸法とかは手がつかなくなってしまいますよ!
“そんな自己流の訳の分からんやり方ではダメだ、伝統的に守られているやり方に則らなくては!“、なんて言われても、“自ずと“そうなったので自己流も何も無いし、そういう方には現実に意識が向かないから無理だし、そうすると第一又、あの感覚が無くなりそうだからイヤですね!
人為的なものと無為的な違いというものはどうしようもありません。
逆に禅と瞑想の違いなんて全くどおってことないと思えますよ。いつも言ってるように祈りと瞑想の違いなども...
ダンマ、聖霊、現臨...形なき命に尋ねるべし!...
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