十数年前、知り合いの紹介でスピリチュアル.ヒーラーのSさんという人と会ったことがあります。
聞いたら飛び上がるほどの高額で、数々の難病を治癒してきたそうです。(別にそのことは疑っていません)
この人が私が余程ちゃらんぽらんな人間に見えたのか、私を"教化してしんぜよう"みたいなことを言い出して、その常に上から目線の態度に不快感を覚えながらもしばし付き合ってみました。
そしてここでその精神的遍歴について書いていることをありのままに話したら、その先生「何というデタラメな歩みであろう...」ときました。
"あのな...人が勝手に迷ったり、学んだり、バカこいてることなんだから放っとけi"と頭に来て、「あなたは霊能だとか、人が分からないことをいいことに、余計な先入観で人を縛って、コントロールしたり、支配しようとしているんじゃ無いのか? 僕はその手には乗らんぞi」と噛みついたのでした。
前世だとかカルマとか背後霊なんかのことはいくらでも疑うことが出来ます。(いや、疑わなきゃダメじゃないの?)そして"オラ、オラ、どや、こや"とやってて、「じゃ、あなた、疑えないものっていうのがあるのですか?」と訊いてきたので、「あるともi」と、私がそのものを目の当たりにした"覚醒体験"に話が及んだのでした。
ここで語っているような"現臨"とかいう表現は一般に認知されてないので、"光の存在"とか"守護の神霊"というもので、その導きをもたらしたものを説明したと思います。
といっても、何度も言うように、私はそこでヴィジュアルなもの、導きとはいえ、そういう声のようなものなどの感覚につながる一切のものには触れていないのです。そして見るもの、聞こえるものにも増してリアルなものがあることを示されたのです。
その先生はそれを聞いて「それは邪霊の作用とか幻想ということは考えなかったのか?」と訊いてきました。
まず、言わなければならないのは、その渦中にある時、疑い、迷い、又信じようとする一切のことは不可能だったのです。
"疑えない"という形容の話では全く無いのですi
これは思考機能を失ったことと直接つながっていることで、否定も肯定も出来ないのです。
どうしようもないことであり、もうただ選択の余地もなく、そのままを受け入れるしかありません。
で、その意識の変容という事態から現実世界に戻って、そのことを思考を巡らして疑念にかけてみると...今もなお"あれは幻想かもしれない"というものは残ります。でもその一方で常に内奥に息づいているのは、ある種の揺るがぬ"絶対信"というものです。
"よしんばそれがサタンの企み、幻想だろうと、疑えないものをどうしようぞi、向かう先は地獄だろうと、私は無条件にそこに赴かざるを得ないではないかi" 選択の余地がないとは、思いを超えて惹き付けて止まないものがあるということです。
そんなことを話しているうち、その先生と無事に気持ちが通じることが出来ました。
私自身が"唯一絶対の真理"と感じているのは、こういうものです。
これはいかにも論争を呼ぶような言い方であり、さも私がそういう境地に達したように思われる人も居るかもしれません。
いや、私のエゴはそう思いたいのです。しかし、その境地を掴んだ瞬間、それは凍結し、生きたものとはならなくなるでしょう。
そして、おそらくその現臨とのつながりは絶たれ、私の存在理由も無くなるに至るでしょう。
これはそもそもどうともならない私のエゴがそこで砕けた(無くなったという意味ではありません)ということを物語っているのですから...
この意味で唯一絶対の真理というのは、無いとも言えるし、それっきゃないとも言えます。どっちみちその他大勢の世の中とは関係無いでしょう。多分...
そういうものにおもねりたくない、私とあなたにしか分からないのかもしれません。
聞いたら飛び上がるほどの高額で、数々の難病を治癒してきたそうです。(別にそのことは疑っていません)
この人が私が余程ちゃらんぽらんな人間に見えたのか、私を"教化してしんぜよう"みたいなことを言い出して、その常に上から目線の態度に不快感を覚えながらもしばし付き合ってみました。
そしてここでその精神的遍歴について書いていることをありのままに話したら、その先生「何というデタラメな歩みであろう...」ときました。
"あのな...人が勝手に迷ったり、学んだり、バカこいてることなんだから放っとけi"と頭に来て、「あなたは霊能だとか、人が分からないことをいいことに、余計な先入観で人を縛って、コントロールしたり、支配しようとしているんじゃ無いのか? 僕はその手には乗らんぞi」と噛みついたのでした。
前世だとかカルマとか背後霊なんかのことはいくらでも疑うことが出来ます。(いや、疑わなきゃダメじゃないの?)そして"オラ、オラ、どや、こや"とやってて、「じゃ、あなた、疑えないものっていうのがあるのですか?」と訊いてきたので、「あるともi」と、私がそのものを目の当たりにした"覚醒体験"に話が及んだのでした。
ここで語っているような"現臨"とかいう表現は一般に認知されてないので、"光の存在"とか"守護の神霊"というもので、その導きをもたらしたものを説明したと思います。
といっても、何度も言うように、私はそこでヴィジュアルなもの、導きとはいえ、そういう声のようなものなどの感覚につながる一切のものには触れていないのです。そして見るもの、聞こえるものにも増してリアルなものがあることを示されたのです。
その先生はそれを聞いて「それは邪霊の作用とか幻想ということは考えなかったのか?」と訊いてきました。
まず、言わなければならないのは、その渦中にある時、疑い、迷い、又信じようとする一切のことは不可能だったのです。
"疑えない"という形容の話では全く無いのですi
これは思考機能を失ったことと直接つながっていることで、否定も肯定も出来ないのです。
どうしようもないことであり、もうただ選択の余地もなく、そのままを受け入れるしかありません。
で、その意識の変容という事態から現実世界に戻って、そのことを思考を巡らして疑念にかけてみると...今もなお"あれは幻想かもしれない"というものは残ります。でもその一方で常に内奥に息づいているのは、ある種の揺るがぬ"絶対信"というものです。
"よしんばそれがサタンの企み、幻想だろうと、疑えないものをどうしようぞi、向かう先は地獄だろうと、私は無条件にそこに赴かざるを得ないではないかi" 選択の余地がないとは、思いを超えて惹き付けて止まないものがあるということです。
そんなことを話しているうち、その先生と無事に気持ちが通じることが出来ました。
私自身が"唯一絶対の真理"と感じているのは、こういうものです。
これはいかにも論争を呼ぶような言い方であり、さも私がそういう境地に達したように思われる人も居るかもしれません。
いや、私のエゴはそう思いたいのです。しかし、その境地を掴んだ瞬間、それは凍結し、生きたものとはならなくなるでしょう。
そして、おそらくその現臨とのつながりは絶たれ、私の存在理由も無くなるに至るでしょう。
これはそもそもどうともならない私のエゴがそこで砕けた(無くなったという意味ではありません)ということを物語っているのですから...
この意味で唯一絶対の真理というのは、無いとも言えるし、それっきゃないとも言えます。どっちみちその他大勢の世の中とは関係無いでしょう。多分...
そういうものにおもねりたくない、私とあなたにしか分からないのかもしれません。