「人間はもはや選択の必要の無くなった時に自由の身となるのである」(ベルジャーエフ)
"あー、疲れた...喫茶店ーたまにはセルフでない昔ながらの方ーでも行って、自由な時空間に浸ってみよう...し、しかし、何だi ドカドカと喧しい連中が団体で押し掛けてきやがったi うっせーなあi あー、はやくこの不自由な時空間から逃れたいi"
人間は他の生物と異なり、予め定められたものから自由に、より良いと思ったものを又自由に選択出来るなど、自由に生きられる...とフツーには思われています。
しかし...真の自由などどこにも保証されていないのですi より自由なものを選択したはずが、かえって不自由をかこつハメにもなるのです。
逆説的ながら、自らそう望んで、不自由な生き方を選択する自由もあるのです。
かように自由というものは思われているほど、そうでは無いという他ありません。
まず、多くの人間は、自由に与る以前に諸々の欲望、思惑、雑念等々の奴隷ではあることを認めねばならないでしょう。
欲望の赴くままに行う自由というのも一応あるでしょうが、本当にそれで自由を実感することが出来るでしょうか?
人間は自由意志により、悪とされるものに赴くことも出来ます。
ベルジャーエフが語る人格には、神的なものが写し出されているが、悪魔的なものに変質してしまうものでもあります。
彼によれば悪は、無底と言われる根源的自由から来るとされるから...
マルティン.ルターが言ったように、人間の自由意志は元より悪に赴くものであり、神の意志がハタラかなければ(恩寵)、無軌道となり、自滅の道を辿るしかないのでしょうか?
ルターによれば、人間は悪からも神からも自由ではないらしい...そこで彼は論敵エラスムスが"人間は善なるものも、悪なるものも自由に選択することが出来る"とする「自由意志論」に対して「奴隷意志論」を展開したのです。
私は、そのいずれかが正しいと選ぶ自由は一応あるのだろうけど、それは多分"机上"でしか通用しないでしょう。どちらにも一面の真理は感じられるし...第一、現実の生の場面では神学論争などで決着出来ないことが多々あることでしょう。
それでも、私の心情から言うのを許してもらえば、私はエラスムスを選びたい!...如何に人生が不自由、隷属状態で溢れたものであっても、生きている、生かされていることは自由なことだから...奴隷意志というものを私は一度も実感したことが無いから...
神的な恩寵は晴天のヘキレキのように降る...それは一方的な神の意志がハタラクように感じます。
ことに神の手がかることになれば、思考、身体の機能がマヒし、超自然的な力の為されるがままにされるようになります。
そうなれば、選択の余地などなく、そう赴く他に道はありません。奴隷になったように...
そこで、自由意志というものは奪われてしまうのでしょうか?
いや、違うi これほど自由というものを実感することは無いのですi そこには諸々のトラワレからの解放があるのですi 生の溢れんばかりの実感も...
これは、自己の表層部分のハタラキが奪われることであり、本質的、本来的な自己が自由に、顕わになるとみることも出来ます。
そして、このことには自己のより深いところでの"同意"があるのが知らされるのです。
それは、思いを超えた、より深いところからの自由意志の発出でもあるでしょう。
こういう事態というのは、諸々の思いに囚われた状態からは接することは出来ず、神の意志の介入を待つしか無いのでしょうか?
いや、私は神の一方的な強行(?)以前にジンワリとした微妙な音信が訪れるのを昔から知っています。
それは、テレビや映画を観た時とか、美しい夕日に見いっている時とか、ありふれた日常の契機にその発露があります。
それは私を愛、平安などに導く何か...それに誘われることで私の本来生がよみがえる何かです。
この段階ではまだ(表層的)自由意志はキープ出来るので、それに誘われることも、打ち消して別のことに赴くのも自由なのです。
その誘惑の先、高じてしまったところに別の世界が開くようです。
こう考えると、神はそれが如何なる境位にあるにせよ、こちらの自由意志と関係無しに、一方的にハタラキかけるものではないように感じます。
ベルジャーエフによれば、神はそのハタラキかけへの、我々からの応答を待っているのだと言います。
恩寵には神と人の意志の協調が存しているのではないでしょうか?
"あー、疲れた...喫茶店ーたまにはセルフでない昔ながらの方ーでも行って、自由な時空間に浸ってみよう...し、しかし、何だi ドカドカと喧しい連中が団体で押し掛けてきやがったi うっせーなあi あー、はやくこの不自由な時空間から逃れたいi"
人間は他の生物と異なり、予め定められたものから自由に、より良いと思ったものを又自由に選択出来るなど、自由に生きられる...とフツーには思われています。
しかし...真の自由などどこにも保証されていないのですi より自由なものを選択したはずが、かえって不自由をかこつハメにもなるのです。
逆説的ながら、自らそう望んで、不自由な生き方を選択する自由もあるのです。
かように自由というものは思われているほど、そうでは無いという他ありません。
まず、多くの人間は、自由に与る以前に諸々の欲望、思惑、雑念等々の奴隷ではあることを認めねばならないでしょう。
欲望の赴くままに行う自由というのも一応あるでしょうが、本当にそれで自由を実感することが出来るでしょうか?
人間は自由意志により、悪とされるものに赴くことも出来ます。
ベルジャーエフが語る人格には、神的なものが写し出されているが、悪魔的なものに変質してしまうものでもあります。
彼によれば悪は、無底と言われる根源的自由から来るとされるから...
マルティン.ルターが言ったように、人間の自由意志は元より悪に赴くものであり、神の意志がハタラかなければ(恩寵)、無軌道となり、自滅の道を辿るしかないのでしょうか?
ルターによれば、人間は悪からも神からも自由ではないらしい...そこで彼は論敵エラスムスが"人間は善なるものも、悪なるものも自由に選択することが出来る"とする「自由意志論」に対して「奴隷意志論」を展開したのです。
私は、そのいずれかが正しいと選ぶ自由は一応あるのだろうけど、それは多分"机上"でしか通用しないでしょう。どちらにも一面の真理は感じられるし...第一、現実の生の場面では神学論争などで決着出来ないことが多々あることでしょう。
それでも、私の心情から言うのを許してもらえば、私はエラスムスを選びたい!...如何に人生が不自由、隷属状態で溢れたものであっても、生きている、生かされていることは自由なことだから...奴隷意志というものを私は一度も実感したことが無いから...
神的な恩寵は晴天のヘキレキのように降る...それは一方的な神の意志がハタラクように感じます。
ことに神の手がかることになれば、思考、身体の機能がマヒし、超自然的な力の為されるがままにされるようになります。
そうなれば、選択の余地などなく、そう赴く他に道はありません。奴隷になったように...
そこで、自由意志というものは奪われてしまうのでしょうか?
いや、違うi これほど自由というものを実感することは無いのですi そこには諸々のトラワレからの解放があるのですi 生の溢れんばかりの実感も...
これは、自己の表層部分のハタラキが奪われることであり、本質的、本来的な自己が自由に、顕わになるとみることも出来ます。
そして、このことには自己のより深いところでの"同意"があるのが知らされるのです。
それは、思いを超えた、より深いところからの自由意志の発出でもあるでしょう。
こういう事態というのは、諸々の思いに囚われた状態からは接することは出来ず、神の意志の介入を待つしか無いのでしょうか?
いや、私は神の一方的な強行(?)以前にジンワリとした微妙な音信が訪れるのを昔から知っています。
それは、テレビや映画を観た時とか、美しい夕日に見いっている時とか、ありふれた日常の契機にその発露があります。
それは私を愛、平安などに導く何か...それに誘われることで私の本来生がよみがえる何かです。
この段階ではまだ(表層的)自由意志はキープ出来るので、それに誘われることも、打ち消して別のことに赴くのも自由なのです。
その誘惑の先、高じてしまったところに別の世界が開くようです。
こう考えると、神はそれが如何なる境位にあるにせよ、こちらの自由意志と関係無しに、一方的にハタラキかけるものではないように感じます。
ベルジャーエフによれば、神はそのハタラキかけへの、我々からの応答を待っているのだと言います。
恩寵には神と人の意志の協調が存しているのではないでしょうか?